#小説・児童文学(7)

澤井先生は昨年(2018年)の3月で早期退職されたが、7月に同じフレーベル館から二冊目の本が出版された。『ローズさん』という一冊である。澤井さんの本の「あとがき」から引用してみる。

「不思議な話が好きです。怖い話も。

この本は私の二冊目の本です。一冊目の『赤いペン』の姉妹編となります。(中略)

自信がなくて人を頼りがちな惟。上手に話せるか不安もあります。多くの人が発信者になっている現代、自分のことを上手にそつなく表現することが求められます。こんな時代だからこそ、上手な聞き手は本当に希少な存在です。私は上手に話すこと以上に、上手に人の話に耳を傾けることは大事なことだと思うのです。聞くということは「その人そのものを聞く」ことです。それがひとり分のスペースしかないはずの狭い自分をちょっと広げるような気がします。」

物語は小樽文学館を思わせる図書館を作品の空間の中心に置いて、小樽(という地名が出てくるわけではないが)の街の空気感に覆われている。この街に伝わる「ローズさんの呪い」という謎を追っていく謎解き型のストーリー展開である。「街をさまよう幽霊」は夜のアーケード街や学校や教会に現れたりするのだが、怪談的な怖さより、思春期の少女の内面の不安や孤独、成長といった要素の方が強い構成だと思う。

この北の街の中学校に転校してきた惟。

「放課後の音楽室に西日が射しこんでいる。静まり返った音楽室の床に惟の影が細く長く伸びている。

惟は部屋のすみに置かれたピアノのふたを開け、いすに腰かけて高さを調整する。目を閉じて一度深呼吸してから、弾きはじめる。

だれもいない部屋に惟のピアノの音だけが響く。ふだん心の中に閉じこめられているさまざまな思いが音になってあふれ出る。」

という書き出し。だれかがいる気配を感じ振り向くと音楽室のドアのガラス窓から見知らぬ少年がじっと見つめている・・・。さあ、なにが起こっていくのであろうか。

澤井さんは、遠慮しておられるのかあまり自分の本のことを言われないようだから、いらぬお世話かもしれないが、ぼくが代わって紹介、宣伝してみることにした。もし興味があったら書店の児童書コーナーで手にとってみてください。

同窓生の皆さんも、静修の怪談話をアレンジし、想像力を膨らませて怖い物語を書いてみませんか。

#小説・児童文学(6)

そうした怪談話の延長でもないが、静修国語科の澤井先生が、赤いペンをめぐる不思議な出来事をめぐる物語を書いて、2014年に「第16回ちゅうでん児童文学賞」の大賞を受賞された。児童文学では全国的にとても権威のある賞である。その時の作品選考委員の顔ぶれがすごい。児童文学者の今江祥智、詩人の長田弘、哲学者の鷲田清一といった各界の一流どころである。今江、長田両氏はそのあと、時を経ずして相次いで亡くなられたが、その「選者の言葉」を一部引用してみる。

「今回の受賞作、『赤いペン』のペンは、自分を必要とする人間をさがして渡り歩くペンで、その人の前に、落とし物という形であらわれ、問題を解決しては、いつのまにか消えている――という物語ですが、ほかのものにはない面白みを感じることができました」(今江)

「人の心の中には、他の人にはのぞきこめない、自分しかのぞきこめない、空白の部分があります。その何もない空白の部分というのは、無しかないのではなく、雨が降ればそこにあると知れる。けれども、晴れればどこにもない。あってなき、なくてある、いわば心の中の水たまりというべき領域です。

水たまりをのぞきこんで見えるのは、自分によく似たもう一人の自分と、頭上にだはなく、自分の足下にひろがる空。『赤いペン』を読んで強く感じたのは、これは人の心の中の水たまりの物語だということでした。あって消え、なくてまた現れる、人の心の中の水たまりの物語」(長田)

「ひとにはだれも、思い出さないようにしてきたことがある。それを隠し持っている。それについては口にできないし、書くこともできない。赤いペンはそういうひとの許を訪れて、そこから物語を紡ぎ出してくれる。そのことでひとを、取り返しのつかない過去と和解させてくれる。(中略)

声高に主張される「大きな物語」ではなく、こころの傷口を、うぶ毛でできた筆先でそっと縫合してくれるような「小さな物語」の連なり。物語についてのみごとな物語です」(鷲田)

この受賞作はフレーベル館から2015年に一冊の本として出版された。本の帯には「怪談?都市伝説?」とあるが、怪談というより都市伝説寄りの物語であろう。この本は中学生の夏休みの課題図書にも指定されたはずである。回転速度の速い現在の新刊書店にあって、先日のぞいたコーチャン・フォーでは児童書コーナーにまだ平積みされていた。すでに版を重ねてロングセラー化しそうな勢いである。小学校高学年から中学生向けの物語なのかもしれない。そういう年頃のお子さんがおられたら、紹介してみてください。

 

#小説・児童文学(5)

また、前回引用の共同研究の文章中に、次のようにも書いた。

<さて、夜に校舎内を駆け回る鹿の話であるが、これを書いたときには鹿に名前があると聞いたことはなかったが、最近は「チャッピー」という名前で語られている。書いたころ、ぼくが知らなかっただけか、その後のどこかから名前がついたのかはわからない。また、その背中に問谷先生がまたがって駆け回っているのだという話に現在はなっている。これもわりと新しいバリエーションではないかと思う。よりによって、身体の大きな問谷先生を選ぶとは、鹿も負荷が大きくて大変だろうが、最初聞いたときはその取り合わせが想像されて思わず笑ってしまった。>

<鹿が壊れて姿を消せば、この怪談も話の依りどころを失って消滅してしまうであろう。いずれにしろ、学校の怪談は類想の話型が多いが、この鹿の話は、本校独自のオリジナルであろう。でも、そもそもなんであそこに鹿の剥製などがあるのだろう。そうした素朴な疑問をだれでも持つであろう。そういう疑問に答えを与えようとして(ちっとも答えにはなっていないが)、そうした何世代にもわたる生徒たちの関心を肥料として育ち、支えられた鹿伝説なのかもしれない。>

問谷先生は既に退職されたから、毎年入れ変わる生徒の間で、鹿にまたがる問谷先生という伝説は、語りの共通基盤を失ってしまうであろう。その時、次にだれが鹿にまたがるのか興味深い所である。とりあえず三宅先生でもおもしろいなあ。話がうるさくて鹿も嫌がるかもしれない。うるさいなあと言って振り落してしまうかもしれないが。このチャピーの背中に乗る先生をいろいろ代入してみてください。新たなおもしろい伝説がうみだせるかもしれません。

そこで引いた常光徹の『学校の怪談―口承文芸の展開と諸相』(ミネルヴァ書房)中の言葉を引用しておきたい。

<妖怪の出現は、均質な集団の緊張を束の間ときほぐす。それは、教室の秩序に一時的な混乱をもたらすことにほかならないが、じつは、彼らはそうしたカオスの状態に乗じるようにして、日ごろうっ積したある種の負のエネルギーを巧妙に放出しているらしい。妖怪騒ぎは、学校という制度のなかで、個の意志とは無関係に持続を強いられた集団の精神的な緊張が沸点に近づいたとき、その解消と冷却を求めようとして、子どもたちが創出したたくまざる文化装置だと理解してよいだろう。>

ということで、やっと澤井先生の本にたどりついた。

#小説・児童文学(4)

前回引用の共同研究の文章中に、次のようにも書いた。前に修学旅行についても書いたので、その補足の意味もある。

<(全国的に)泊まった旅館にあやしげな幽霊が出たといった話のパターンは多い。実際、修学旅行引率中にそういう女生徒たちの騒ぎに往生した記憶がある。修学旅行が怪談ネタになる理由は容易に想像がつく。学校や家の日常から切り離され未知の空間を体験していること。寝不足や旅の疲れで心身ともに疲労が蓄積して精神的に不安定な状態にあること。そこで、誰かが怖い体験をしたという種をまけば、集団心理的にヒステリックな恐怖が燃え上がってしまうこと。など、そういう話を生み出す非日常的な条件が満たされていることが怪談話の温床に当然なるわけである。>

実際に、修学旅行中に泊まった宿の生徒の部屋の隅に、生徒がやったのであろうが、白い紙の上に塩を円錐形に盛り上げたりしていたのを見た記憶がある。夕張での宿泊研修でも似たようなことがあった。

一方で、以前、ラーメン屋の玄関先に似たように塩を盛り上げているのを見たことがある。その店主に、あの塩は何の意味があるのかと聞いたことがある。嫌な客は来るな、という魔除け的な意味なのかと思ったが、違っていた。店先に塩を盛っておくと、それにひかれて牛(だったように思うが、中国当たりの故事に由来するのであろうか)がいっぱいやってくる。そんなふうに客がいっぱいやってきてほしいというおまじないのようなものだと説明された。同じ塩でも、忌避と歓迎という正反対の意味をもつのだというのが新鮮な発見であった。

(前振りはもう少し続く。)

#小説・児童文学(3)

以前、静修高校国語科の澤井先生と岡部先生とぼくで、共同研究「学校の怪談」(『札幌静修高校 研究紀要』第41号 2009年3月)というのを書いたことがある。3人で分担して書いたのだが、ぼくは理屈っぽい部分を担当し、澤井、岡部両先生は静修の具体的な怪談話やその分析を書かれたと記憶する。その企画の言い出しっぺは澤井先生であった。

ぼくは、物理学者の中谷宇吉郎の文章を引用しながら、次のように書いた。一部引用してみる。

<つまり「学校の記憶」である。より厳密にいえば、「学校についての記憶」ではなく、「学校という空間が記憶している記憶」という意味である。そう考えるとき「学校の怪談」とは、「学校という空間がみる夢」であるとみなしてみたら、イメージがパーと広がった。その「学校の記憶」は人間で言えば深層無意識に沈殿している記憶のようなもので、そこに生息する教師や生徒といった構成員の中で、そういう「学校の記憶」に感応しやすい資質の持ち主を媒体として語り出されるのが「学校の怪談」であると考えてみると、興味深い話である。そんなふうに発想して、夜の学校を歩いてみると、学校の鼓動や呼吸音やいびきまで聞こえてきそうになるから妙な気分に陥るのである。>

この感覚を体感してもらうためには、お盆のころにでも、同窓会で深夜の校舎を一人ずつ肝試しのように、無灯火か蝋燭1本を手に探訪するというミステリーツアーを企画してみられたらいかがであろう。修学旅行ではないが選択コースを作ってくじびきで選んでもらう。たとえば北校舎プールコース。地下ロッカーコース。理科室・音楽室コース。エレベーター乗車コース。作法室・調理室コース。職員室・図書館コースなど。もし、一人行方知れずになってとうとう帰ってこなかったというようなことになっても責任はとれないが。

その企画のスタートは同窓会のツアー参加者が真っ暗ながらんとした体育館の真ん中で丸く座って蝋燭を立て、その揺れる光のなかで、生物の松平先生の静修の七不思議という怪談話を聞いたり(ツアー終了後に松平先生に手相をみてもらうという特典がついてもいいなあ)、静修のイタコとして岡部先生の迫真の声で、静修に関係する物故者の名前を読み上げて「口寄せ」してもらったり、百物語や小泉八雲の怪談噺の朗読などをしてもらって雰囲気を盛り上げてみてもいい。みんなでこっくりさんなんかやったらいよいよアブナイ。

怪談探訪問コースはどれも怪しい。だれもいない北校舎の水の抜かれたプール。闇の中から聞こえてくる泳ぐ人がたてているような水音。床にポタポタとしたたる音。どこかから聞こえてくる琴の音やオルゴールの音。理科室や音楽室をノックしながらひたひた歩く足音。笑う人体模型。開かずのエレベーターの中から聞こえるうめき声。勝手に開け閉めするロッカーの開閉音。長い廊下のむこうや階段に揺れる人の影。体育館を横切る人の姿。部室の中から聞こえる話し声。窓の外から見つめる長い髪の女。作法室から聞こえる雛人形の声。イヒヒヒヒ・・・。書きながら、想像していたら自分で怖くなってきた。(澤井先生の本について書くつもりであったが、前振りがつい長くなってしまった。前振りはもう少し続く。)

#小説・児童文学(2)

桃谷方子『青空』(講談社)は作者の静修での高校生時代の生活を描写の下敷きにしていると推測できる文章があちこちに出て来る。任意に引用してみる。

<二年二組の教室は、授業という課題を果たすと用のない入れ物だ。「課題」。今のわたしに何とふさわしい言葉だろう。十六歳の自分には学校の授業が必要なのだ。なぜなら、わたしは未来を信じている。学校も授業もつまらない。できることなら、教室の窓から見える青空の下を、祐一の走らせるオートバイに乗っていたい。それとも、一人でひっそりと大好きな本を読んでいたい。でも、私はそうはしない。逃げるのが嫌なのだ。だから学校も授業も放棄しない。>

<放課後、祐一に会う日以外は図書館ですごす。創立七十年のこの学校を選んだのは、創立七十年なら図書館が充実しているだろう、と思ったからだ。>

<校門を抜けると、私は地下鉄に続く通学路へ向かった。学校の前には市電も通っているが、ほとんどの生徒が地下鉄に乗る。>

<わたしの通うこの女子高は、いわゆる進学校ではない。試験の時以外、教科書とノートを地下室のロッカーの中につめ込んでおいても大丈夫だ。授業中は物思いに耽る時間が充分にある。授業時間を持て余すことはない。>

<校門を出て通学路を少し行くと、左手に、ブロック塀に囲まれた民家と民家の間に、穴状になっている小道を見つけた。両側の家の庭から迫り出した樹木と街路樹が、空中で緑色のアーチを作っているのだ。

わたしは、緑色の穴へからだをすべり込ませた。どこへ出る道なのかわからない。中島公園につながっているのだろうか。>

<十月一日に制服が冬期用のセーラー服に替わった。>等々。

だが、作品としては「喜楽湯極楽」(「北方文芸」1996年8月号)が一等面白かった。1人の男をめぐって、70歳代の老女二人が銭湯で壮絶なつかみ合いをはじめるのである。一部引用する。

<カオルさんの両手は、マリさんの首を掴んだままだ。マリさんは両脚をばたつかせている。マリさんの足が、カランに置いてあった洗面器、シャンプー、セッケン箱をほうぼうに飛び散らかした。

キタミさんが、タイルで滑って転んだ。その拍子に、ソデさんの足元を掠めた。

老女はみんな脚が弱い。

とっさにソデさんが、キタミさんの垂れ下がった乳房を掴んだ。

ギャアア。キタミさんが絶叫した。

痛いぃ、とキタミさんが声を張り上げた。そのまま、キタミさんは、前のめりに倒れていった。ソデさんは、仰向けにひっくりかえった。

キタミさんの頭が、カランの蛇口に埋まっていた。ソデさんは宙に手を伸ばしたまま、白目を剥いて気を失っていた。

とっくに、コリンさんは、タイルの上にへばりついていた。両手を合わせ、念仏を唱えている。

「地獄だあ」

ダンスさんは、叫びながら駆け出した。>

こんな具合である。李恢成の言葉を借りれば、グロテスク・リアリズムとでもいおうか。どういう事情か、桃谷方子の新作は最近目にしなくなった。新刊書店ではもう手に入らないかもしれない。もし興味があれば読んでいただきたいが、図書館で借りるか、ネット上なら安く手に入ると思う。

#小説・児童文学(1)

ぼくは小説の批評のようなことをやっていたので、だいぶん前だが、札幌の『間道』という文芸同人誌のグループに呼ばれて、何か話をしてくれと言われて出向いたことがある。その誌の中にまだ無名だった桃谷方子(最初のペンネームは桃谷令子、次に桃谷保子を経て、桃谷方子に名前を変えた)という大胆な発想で面白い小説を書く人がいた。ぼくはとても高く評価していた。その会合の帰りにあれこれ話す機会があり、しゃべっているうちに、その人が静修高校の卒業生だと知ったのである。在学中に有島青少年文芸賞に入賞したことがあると聞いた。当時、文芸部で活動していて、顧問は渡辺重夫先生であった言っておられた。クラス担任だったか、教科担任だったかが英語の瀬尾先生で、「私は生意気で、変わりものでもあったから、瀬尾先生とはよく衝突した」というようなことを話しておられたように、かすかに記憶する。

その作品にはどれも勢いと思い切りのよさがあり、ぼくは何度も作品評で取りあげた。たとえば「いびきの女」では失恋した女性が、腹いせのように高らかに「ぶぶっ」と路上で豪快に放屁するシーンが印象的な痛快な作品であった。普通、ここまでは書かんぞという大胆さが魅力であった。

その後、桃谷は「赤富士」という作品で第一回北方文芸新鋭賞を受賞。その後、「百合祭」という作品で北海道新聞文学賞を受賞。この作品は講談社から刊行され(今は講談社文庫)、観てはいないが映画化もされたようである。その後、次々作品集が出た。『青空』、『恋人襲撃』、『馬男』、『修羅婚』など。

今手元にある本の中から『百合祭』と『青空』(ともに講談社)の本の帯を引用してみる。

『百合祭』――「秀抜な構成と人物造形!高年者の愛と性の衝動」

「来るべき老齢化時代を踏まえて、この作品はすでにたしかなリアリティーをもち、なまじ深刻ぶった小説より、はるかに老いの生々しさと人生の哀歓を描いて、適確に迫ってくる」(渡辺淳一)

「老女ばかりが住むアパートに男(七十九歳)が一人入ってくることで巻き起こる生活空間の変容は、多声的な生命への昂揚感そのものである。この喜劇仕立てのグロテスク・リアリズム小説の根底にあるのは、生命に対するオードであり、再生をかけた人間への励ましであろう。」(李恢成)

『青空』――「新作『青空』は文字通り、希有なる恋愛! 16歳女子高生と、一本筋の通った74歳の画家の相慕う魂を、夏の終わりの澄み切った空の下に描き、深い感動を呼ぶ!」

#生活の決まり

夏休みや冬休みに入る前のホームルームで、長期休暇中の過ごし方の注意点を事細かく書いたプリントをもとに注意を促すということがなされていた。長期休暇に入る前なので、生徒たちはハイテンションで、あまり真面目に聞いてはいない。生活部(現在は生徒指導部というのだったか)から出される「夏休みの心得」といったタイトルのプリントではなかったかと思う。今手元にないので断片的な記憶で言うしかないが、生徒が危険な目や事故に遭わないようにという親心であろうか、実に細かいことまで書かれていた。毎年同じものを使うから、時代に合わない奇妙な項目も結構あったように思う。

出入り禁止場所も羅列されていたと記憶するが、たとえば、ダンスホールなどとあって、ぼくもこれってどういう場所?と首をひねったのであった。喫茶店も駄目だった気がする。映画は何時までとか、キャンプは学校に届けるようにとか、海水浴は保護者同伴でとかいろいろあった気がする。アルバイトも基本的に禁止で、経済的な理由からせざるを得ないという場合でも許可制であった。冬は郵便局の仕分けのアルバイトなどがあったが、それもきちんと学校の許可を受ける必要があったはずである。帰宅時間も決められていたように記憶する。まあ、傍目には余計なお世話、いらぬいきすぎたおせっかいともとられるであろうが、それは教育的善意として生み出されたものであるということは理解できる。今も似たような文書は配られているのであろうか。

時代は変化する。生徒を危険から少しでも遠ざけるという配慮は今も変わらないであろうが、パソコンのネットやケータイやスマホが登場し、それがみるまに普及し始めてから、まったく新しい危険が生じているように見える。生徒の問題行動も今と比べると、かつてははるかにわかりやすかったが、今は、非常に見えづらくなっているのだと思う。便利になったのは間違いないが、子を持つ親にとっても、教師にとっても子どもを危険から守るという意味では、とても大変な時代になったなあと思うのである。

#立つ鳥跡を濁さず

卒業を控えて家庭学習に入る前にはロッカーのカギの返却や私物の持ち帰りの指導をすることになる。いつの頃からか教科書・ノート類や体育ジャージ、上靴などが地下ロッカーに大量に捨てられるようになった。用務や清掃の職員の方たちは、その片付けが大変な作業量になる。まだ十分使えるのにもったいない、嘆かわしいという言葉も聞いた。

学年集会やホームルームで「立つ鳥跡を濁さず」だから、自分の責任で持ち帰り、必要ないなら自分の家で処分しろと注意するが、馬耳東風というか、面倒くさがって、無視して捨てていく。仕方ないので、生徒が帰る時間帯に教員がロッカーに張り付いて、無理やり持って帰るように指導することになる。やむなく持って帰るが、中にはそれを地下鉄の幌平橋駅に捨てていったりするふとどき者が現れる。駅から学校に苦情が来る。そうすると、今度は幌平橋駅に張り付くという必要が生まれる。

教科書やノートを捨てるのは、これで教科書や学校から解放されるという気持ちとして、分からないではないが、そこはマナーの問題である。以前ニュースで、使った靴でもきれいにして、裸足で生活せざるをえない貧しい発展途上の国の子どもたちに送るという運動があるときいたことがある。この卒業シーズン、全国の学校でどれほど大量のまだ使用可能な靴が廃棄されることだろう。大量消費型の生活がもたらした、もったいない話ではある。

ジャージもたくさん捨てられたのだろう。腕のところの白い親子線のデザインを見る度に、ぼくは江戸時代の島流しされた罪人の刺青を連想したものであったが、学校以外で静修ジャージを着る機会はないだろうなあ。家の中でリラックスする時の部屋着ぐらいには使えたかもしれない。

では、制服の運命はどうなったであろう。静修セーラーは16,17,18歳の間しか着ることの出来ない、期間限定のファッションであるから、卒業してから街で着て歩いたりしたらアブナイことになる。制服こそ、卒業したら使いようのないものである。でも、汗と一緒に愛着のようなものが沁み込んでいるから、教科書や上靴を捨てるようなわけにはいかないのではないか。もしかしたら、捨てるに捨てられず、箪笥の奥にいまだに眠っていたりするケースもあるかもしれない。

中高生の子どもがいるような年齢になって、隠れてそっと引っ張り出して着用し、予告なく突然、だんなや子どもの前に登場してみたらおもしろいかもしれない。だんなや子どもが大きく口をあけて唖然とし、「母さん、狂ったか!」と叫んで泡を噴くかもしれない。自分の誕生日の余興としてやってみても面白そうだ。

そういえば、ぼくは高校時代に詰襟の学生服で3年間を過ごしたのであったが、あの制服はどこにいったんでしょうねえ。もう一度着てみたい気もするが、やっぱりそれはグロテスクで気持ち悪い姿だろうなあ。

#静修の杜・屋上

今、生徒玄関を出て通路をはさんだ向かい側の木が植えられている空間は、以前はテニスコートだったように記憶する。そのテニスコートを現在の場所に移動して、その跡地に静修の杜が造成されたのが1982(昭和57)年である。当時の写真を見ると、中央に一本(たぶん楡の木)があるだけで、今のように木が生い茂ってはいなくて、がらんとした印象である。その後、卒業生が残す記念樹などが植樹されたりして、それらの木が今は葉を茂らせている。そこにクルミの木もあって、秋になると実を落し、それを拾っていた先生もいた。そのクルミの木は台風で根元から折れ、その後、小倉先生が学年主任の時だったか、新たに卒業の記念樹として植えられた。今はだいぶん大きくなっているはずだから、クルミ拾いができるかもしれない。

木と言えば、現在の書道室、以前保健室があった前のあたりの庭にまっすぐ伸びた松(何松というのか知らない)や梅や柿の木がある。梅は春先きれいな花をつける。柿の木は星野先生が植えられたのだと聞いたことがあるが、北海道の気候では実って色づくところまではいかないようだ。松はまっすぐ伸びた美しい姿をしていて、いつかクリスマスツリーのように電飾したらきれいだろうなと話していたが、ある日、幹の途中からばっさり伐られてしまい、無惨な姿になってしまった。今の職員駐車場のあるあたりにはいっぱい桜の木があり、春先は見事に咲き誇りにぎやかであった。先の松が切られた同じ頃に、桜もだいぶん伐られてしまった。近所の人に、毎年楽しみにしていたのに、なんで伐っちゃったんだと怒られたことがある。ぼくに言われても困ったのだが、あれはどんな理由があったのだろう。

静修の杜に話を戻すが、その静修の杜が一時期、昼休みに生徒の憩いの場として開放されていたような記憶がかすかにある。たぶん生徒管理が大変なのでそれは無しになったのだろう。あるいは、全国的に学校をめぐる外部侵入者による事件が多発したために、管理が厳しくなったのが理由かもしれない。以前は、生徒玄関は施錠されず、いつも開きっ放しだったように思う。ある時期から、始業後は放課まで、出入りは正面玄関だけになり窮屈なことになった。

同様に、3階の屋上も開放されていて、そこで文化祭の練習が行われたり、放課後、ソフトボール部の練習場所として使われていた時期もある。それも今は、1年じゅう施錠されており、屋上に出ることは出来なくなっている。これも教員の目が届かないとか、危険だという理由だったのかもしれない。

ふと、屋上をステージに見立てて、3階以上の教室の窓を観覧席にして、軽音楽部やダンス部などのパフォーマンスを披露しても開放感があって面白いかもしれない。と、思ったが、屋上で大音響の音楽などが鳴り響けば、今度は近所から「うるさい」という苦情がくるだろうなと思い至った。子どもの声がうるさいからと、幼稚園の建設反対運動がおこる時代である。世知辛い世の中になったものである。