#試験問題(4)

試験と言えば、もう一つのほろ苦い思い出。大学時代、ぼくは第二外国語はドイツ語を選択していた。英語は受験勉強で蓄えた貯金があったから何とかなったが、ドイツ語は初めてである上に、語学にはちっとも興味がもてず、さぼるにいいだけさぼって、ほとんど授業に出なかった。だが、必修科目であったので、試験に合格して履修が認められなければ卒業できない。試験を受けたが、当然、手も足も出ない。そういうぼくみたいなのが何人もいた。さすがに不合格者が多すぎるというので、救済処置であったろうか、辞書持ち込み可ということで再試験が行われた。ドイツ語文を日本語訳せよというような試験だったような気がする。だが、ドイツ語というのは単数か複数か、男性名詞か女性名詞か、時制などによっても単語のスペルが複雑に変化するらしい(そういう基礎的な文法もまったくあやふやだ)から、持ち込み可の独語辞書を引こうにも引き方がそもそもわからない。隣に座った友人からカンニングペーパーならぬ通信文がそっと手渡された。そこには「わかるか?」と書かれていた。「全く分からん。沈没。ぶくぶく」みたいなことを書いて戻したのである。当然不合格。それで、懲りて身を入れて勉強すればいいものを、次の年もさぼりまくった。

しかし、卒業できなければ困る。そこで窮余の策として編み出したのが以下の方法である。その年度のクラスで遣うドイツ語テキストがある。大学の近くには、たぶん出来る奴のアルバイト仕事であろう、語学テキストの日本語訳の冊子を売る訳本屋と呼ばれる店があった。試験が近くなり、それを買い求めた。例年の出題パターンを分析すると、そのテキスト中のいくつかの段落を取りだして、日本語訳せよというものである。ヤマをかけるだけの知識もない。そこでぼくは、まず各段落の冒頭のドイツ語の単語を段落ごとに記憶した。そして、その冒頭の単語を目印に、段落ごとのその日本語訳が出てくるように丸暗記した。試験範囲の全文の日本語訳をだいたい暗記したが、出題されているのがどの段落かを見分けるのは、冒頭の単語である。この方法は見事にあたった。この方法で、本来2年で終わるドイツ語を4年かけて履修したのであった。だが、こんな方法でドイツ語が身に着くはずがない。ということで、ぼくが知っているドイツ語は「Ich liebe dich」(愛している)ぐらいである。

これは試験の一種のトラウマで、ヒトラーの記録映像だとか,チャップリンの「独裁者」を見る度に、この時の切羽詰まった体験を思い出すのである。しばしば夢にも出て来る。「お前、さぼり過ぎだろう」と今さらながら独語するのである。

#試験問題(3)

試験問題の漏洩などあったら大問題だから、その管理は厳重である。定期考査の問題はロッカーに鍵をかけて厳重に管理されることになっている。

これが入試問題になると極めて厳重な管理が必要になる。勤めて間もない頃、国語の入試問題の責任者になったことがある。印刷も漏洩防止ということであろう、民間の業者ではなく、札幌刑務所内の印刷所で印刷が行われていた。刑務所には初めて入ったが(と書くと、罪を犯して収監されたみたいだが、そういうわけではない)、校正もその刑務所の建物の中で行ったような気がするが、記憶が確かではない。

この時だったか、もっと後だったか、僕には苦い記憶がある。校正ミスをしてしまったのである。国語の入試問題文中、確か「電信柱」という表記の部分が「雷信柱」と誤植されていたのである。国語の試験が始まって比較的すぐだったと思うがそれに気が付いて、慌てて手分けして各教室に訂正に歩いたのである。解答に直接影響するような誤植ではなかったが、青ざめた。以来、入試の時は、国語の試験時間が終わるまでどきどきであった。遠くから廊下をぱたぱた走る音が聞こえただけで、跳び上がってしまう。

進学講習で、受験テクニック的なこともやった。たとえば、接続詞や副詞補充の穴あき問題で(   )が五つあり、語群の語句も五つあるというような設問の場合は、まず、ここにはこれしか入らないだろうというような判断が出来るものから埋めて決定していく。そうすると微妙に迷う語群の言葉が残る。残ったものを両方入れてそれぞれ比較してみるとなんとなくこっちにはこれだろうという道筋が見えて来る。そのピースがはまれば、残りの語句は機械的に決定されてくる。

それに対し、センター試験の5択問題のように、ふさわしいものを一つ選べみたいな設問は、先に正解を探してはいけない。もっともらしく作られた誤答に引っかかりやすいからである。この場合は、消去法が有効である。明らかに違うというものから消していくと、だいたい二つくらいに絞られてくる。どちらがより正解に近いかを問題文に照らしながら探っていって、どれかに決定する。その最後の判断において読解力が問われるのである。ある答えを正解とする根拠は、絶対に本文中にある。そうでなければ、その問題を作成した出題者の見識が問われることになる。その他、出題者心理を逆読みする方法とかも伝授した。問題演習をしながらの進学講習は目的がはっきりしているだけに面白くもあった。

#試験問題(2)

もう40年以上も前の話である。自分の出身高校で国語の教育実習をしたのであった。そのとき、「試験問題は2回作りなさい」と教えられた。その時には納得して聞いていたような気がするが、その後、いったいどういう意味で2回作る必要があると言われたのか忘れてしまい、そんな無駄に時間がかかることを実践したことは1度もない。それが、退職して5年もたった今になって、この文章を打ちながら、あっ、と思い至った。ふつう定期考査までに教科書のこの教材とこの教材を使って教えるというのはだいたい決まっている。その教材に入る前にその試験問題をまず作成してみろということだったのだとひらめいたのである。試験問題を作るためには、その教材を読みこなし、どこにポイントを置いて、どう授業展開するかを練る必要がある。つまり、教材に入る前にしっかり教材研究して授業イメージを作っておけという意味だったのだと気付いた。そして、授業をやってみて、生徒の反応や授業の中で、個々の部分でここの理解度は問いたいという形で、最初に作った試験問題を修正し、本番の試験問題が2回目として作成されねばならないという教えであったのではないかと、今頃になって思う。だが、あの時代はそれを可能にする余裕があったのかもしれないが、多忙を極める現在の教員にそれを求めるのは現実的に無理だとは思う。ただ、学校において教科指導こそが教育の根幹部分だという教えでもあったのだと思い返す。

さて、みなさんはどんな印刷で試験を受けられたのだろう。ぼくが静修に勤めはじめたころはロウ原紙に鉄筆で字を切って謄写版印刷するのが普通だった。字の下手なぼくはできるだけ丁寧にと思うとやたら時間がかかった。力を入れすぎて原紙がしばしば破れた。先輩の先生方は、それぞれ独特の字体を持っておられた。林先生の小さな升目にきっちり刻まれた几帳面な字は印象に残っている。試験だけではなくすべての印刷物がガリ版印刷だった。当時の書類は学校にたくさん保管されているはずである。その印刷物の字体から、その書類は誰の書いたものか当時の先生方なら言い当てることが出来るのではないかと思う。そういう字体当てクイズが出来そうだ。(今はヤスリも鉄筆も見たことがない人が多いであろう。昔使われたガリ版印刷機材は倉庫かどこかに残っていないだろうか。あればとても貴重な学校遺産になると思うのだが)。

そのうち、日本語タイプライターが登場した。この時期、事務室にそれが置かれていて、事務書類などはそれで打たれていたように思う。天野先生が自分の最新の和文タイプを自慢しておられた記憶がかすかにある。そして、特殊な用紙に鉛筆だったかボールペンだったかで書き、熱で転写印刷するような方式が入って来て、だいぶ楽になった気がしたが、それもほんの一時期で、次いで登場したワープロは画期的だった。ぼくは富士通のオアシスというのを使って1本指打法で試験問題をこさえた。10年ぐらい使っていたが、退職近くなったころに、黄金色の線が画面いっぱいに走り、昇天した。その頃にはみんなパソコンを使い始めていた。ぼくは、ぎりぎりワープロで間に合った。これから先、どんな新しいものが出てくるのであろうか。でも、あのガリを切るカリカリという音の人間臭さは懐かしくもある。

#試験問題(1)

教科の性質によるのだろうが、暗記主体の教科の試験問題はどうしても、穴あき問題が多くなる。「次の(   )内に入る語句を後の語群から選び記号で答えよ。」というやつである。(   )の数と語群の選択肢の数が一致する場合は一番解答しやすい。それを少し高度にするには、(   )の数に対して語群の数を多くする方法がある。つまり、語群の中に使わない語句をさしこんでおいて余りが出るように問題作成するのである。逆に、語群中の語句を複数使ってもよいという条件を設定するのである。そうすると正確に覚えていないと迷いが生じるので、正答率は幾分下がる。つまり難易度は上がる。

記号問題が多いと採点の効率も上がる。機械的に〇×をつけていけばいいからである。一度国語の知識を問うような問題で、「後の語群から選びア~ソの記号で答えよ」という問題で、正答を意図的に配列したことがある。最初のあたりを意味配列にするのである。たとえば、「スキアウセカイオコケクサソシエ」にしてみる。「スキアウセカイオ」あたりまでは(好きあう世界お)と意味を与え、意味の連続性は切れるが「コケクサ」も(苔草)という意味を思い浮かべ、残った記号を「ソシエ」と語呂でつなぐ。そうすると、15個分の答を一気に覚えて採点することが出来る。「スキアウセカイオコケクサソシエ」と呪文のように唱えながら〇×をつけていくと能率的である。ただ、この部分だけを数クラス分まとめてつけ終わったころから、この無意味な呪文が残像のように脳の中で響き続けて、なかなか抜けていかないという困ったことになる。しかし、これは便利な方法だと面白がって吹聴していたら、これまた先輩の先生から「不謹慎だ」と注意を受けた。以後は全くランダムに配列する形に戻したのであった。

あるまとまった文章の一部の語句を抜いて穴をあけて作られた穴埋め問題だと、その内容の知識がなくても、その文脈上、ここにはこの語句しか入らないだろうと見当をつけて、ある程度答えることも可能であると気付いた。地歴公民や家庭科、保健体育の試験問題の余りをもらって、実験してみたことがある。自分の手持ちの多少の知識とこきまぜてやってみると、6、7割ぐらいは正答が出せた。しかし、「〇〇について説明せよ」といった説明問題には勉強していないと全く太刀打ちできないのである。平均点を一定のライン(たとえば60点前後)に持っていくように問題作成するには、この穴埋め問題と説明問題の比率の調整もポイントで、そこでは経験則のようなコツが要求されてくるように思う。

記号問題では、生徒のカタカナの書き方にもしばしば立ち止まらされる。たとえば、「シ」と「ツ」、「ア」と「マ」、「ク」と「カ」や「ケ」、等はしばしば判読に迷った。

#試験監督(3)

先に書いたように、50分なら50分、基本的にじっと何もしないでいるわけだから、気を紛らわすためにいろいろ工夫もするが、工夫と言ったってできることはたかがしれている。教室の前や後ろに貼られている掲示物に目を通したり、教室全体の様子を見まわしたりする。要するに暇なのである。だから普段見落としているいろんなことが目についてしまう。そして、試験監督は機械的に割り振られるから、自分が担任しているクラスの教室にどの先生が監督に来るかわからない。

今思い出しても、先輩の先生から、試験後いろんな注意を受けた。「古い掲示物がそのまま貼られている。はがさないと必要な掲示物を生徒が見落とすことになる。教室の整理と美化は大切だという意識を持て」「黒板の下がチョークの粉で汚れている。ちゃんと清掃指導しているのか」「横の壁に、鉛筆の落書きがあった。きれいに消させろ」「掃除用具箱のカーテンが一部外れて、中が見えるようになっている。見苦しいから直せ」「掃除用具箱の上の進路資料の置き方が乱雑だ。いらないものは捨てて整理しろ」「机や椅子の脚にごみがいっぱいからまっている。一度全部引っくり返して取らせろ」「あの生徒の髪は染めている。指導しろ」等々、特に若い頃は実に細かなことまで、そのルーズさを指摘された。

試験前になると生徒も緊張するだろうが、担任としても緊張せざるをえなかったのである。だから、定期考査前は、特に念入りに清掃し、黒板を可能な限りきれいに拭き、黒板下に雑巾をかけ、机の中を点検し、机上の落書きを消しゴムやシンナーで消し歩いた。机の横や椅子の背もたれに貼られたシールを金属製のへらではがした。当日の朝には、机が等間隔にまっすぐになるように並べそろえた。ただ、根がずぼらでだらしないぼくなので試験が終わって普段の日常になると、じきに元に戻ってしまうのである。その意味では、定期考査は年末の大掃除みたいなものだったのかもしれない。

これが、入学試験の設営では全校を挙げて行われるのである。今でも記憶にあるのは、教室の机の配置を前後と左右それぞれ等間隔に並べるというので、花田先生が物差しで机間を測りながら、きわめて厳密に並べ方を指示していた姿である。意外と几帳面な人なんだなあと思ったのであった。

昔は1教室に60人近くの生徒が詰め込まれていた時代もあるそうだ。それでは、机間が近すぎて、見ようと思わなくても隣の答案が見えてしまったのではないか。試験監督も机間巡視など出来なかったのではないかと想像するのである。

#入試説明

私立高校教員の大きな業務の一つに、生徒募集の仕事がある。年に数回、担当する中学校に出向いて、静修の教育の特徴や入試制度の説明、学校公開や入試説明会の案内などを行なうのである。生徒募集ポスターの掲示やパンフレット類の配布をお願いしたりもする。

ぼくが最初に担当したのは、千歳、恵庭、北広島地区の全中学校であった。通常は中学校の進路指導主事にアポをとって、通常の授業の隙をぬって訪問するのであるが、その頃は担当していた中学校数は非常に多かったので、中学校の先生の都合に合わせていたら何日かかるか分からないので、まず、高速を使って千歳に入り、地図を片手に一校ずつ回り、だんだん札幌に近づいて行くというコースをとった。進路指導主事の先生が授業中だったり不在の時は、3年生所属の先生のどなたかに対応してもらった。

その時の失敗話。大曲から北広島に行く途中にある学校であった。学校名は忘れたが、ある中学校に行って(当時は今のように出入りが厳重ではなかったから、入り口から入って職員室に直行できた)、そこにたまたまいた先生に「静修高校から入試説明に参りました入試委員の妹尾と申します。進路担当の先生にお会いしてお話させていただきたいのですが」と名刺を差し出した。一瞬怪訝な顔をされたが、「ちょっとお待ちください、担当のものを呼んできますから」と、そこにあった小さな応接椅子に座って待つように促された。待つ間、職員室を見回した。するとそこに「6年生」とか「4年生」と表示されたプレートがぶらさがっている。「えっ、どういうこと?」と混乱し、狐につままれた気分。やってきたのは、教頭先生のようであった。「どういうご用件でしょうか?」「あのー、6年生ってどういうことなんでしょう」「えっ?」。そこでぼくは了解した。そこは中学校ではなく、小学校だったのである。ひたすら、頭を下げて「とんだ勘違いをしました。学校を間違えたようです」。相手の先生は笑って説明してくれた。以前、この校舎は中学校だったのだが、統合で中学校は移転して、その元の校舎は、今小学校として使われているのだとのことであった。「大変、失礼いたしました」と職員室を後にしたのだが、職員室から笑い声が聞こえて来たような気がした。ぼくが使っていた地図は10年以上前のものだったのである。

教員が中学校に行くのと逆に、受験予定の中学生や父母に学校に来てもらうというシステムもある。学校公開とか入試説明会というやつである。学校公開は年に2回秋口以降に実施されていた。最初に体育館で全体説明をして、その後は各自自由に学校内を見学してもらうという形である。模擬的な授業公開やクラブ見学や体験などが用意されている。時々、卒業生だという方が中学生の娘や息子と一緒に来られていて、何度か話をしたことがある。

同窓生の方の中には、卒業以来一度も静修高校に入ったことがないという方も多いのではないか。中学生のお子さんがいる方、あるいはそうでなくても、冷やかしでもいいから今の静修高校を覗いてみるいい機会ではないかと思う。校内をうろうろしてみれば、知っている先生に会えるかもしれない。校舎のあちこちに3年間を過ごした青春の記憶のかけらがみつかるかもしれない。今年の学校公開は、9月22日(土)と11月3日(土)で、それぞれ9時から11時半まで行われるようだ。

#試験監督(2)

暗記型の教科で、ほとんどを記号で答えさせるような作りの試験問題の場合、試験監督は緊張する。基本的に覚えていたらすぐに答えは出る。逆に覚えていなかったらあきらめるか、適当に穴埋めするしかない。考えるために時間を要する必要が少ないので、試験開始から10分とか15分とかで終わってしまう。そうすると、残った時間は試験時間終了まで何もしないでじっと待つしかない。その意味では、試験監督同様、生徒も大変である。ガマの油ではないが、試験監督と、どこか魂の抜けたような表情をうかべている生徒たちとは沈黙のにらめっこの時間に耐えなければならないことになる。

「小人閑居して不善をなす」という言葉があるが、この無為な時間が一番あぶない。暇なもんだから、前や横の生徒の答案を盗み見ようとする。あるいは自分の答案をそっとずらして友達に覗かせてやろうとする(友情に厚い?)やつが蠢き出す。前から見ているとその気配は意外とよくわかる。身体が妙に揺れる。監督の方をやたらちらちら見る。不自然に机の中に手を出し入れしたり、うつむいて机の手前のあたりに目を落とす。

監督の役割は、必ずしも不正を見付けることではない。不正を未然に防ぐことにある。カンニングペーパーのような動かぬ証拠があれば、話は早いが、不正が疑われた場合、その生徒から事情を聞くことになる。見た、見ない、人の答案を見て写した、写さないというやりとりは実に消耗する。先生は私を疑っているのか、生徒のいうことを信じられないのか、などということになると相互に不信感の泥沼にはまる。よしんば、生徒が認めたとしても、その後、教科の会議から始まって何段階もの会議が続くことになる、謹慎の処分が決定すると、生徒本人と保護者にも来てもらって、校長以下、担任を含めて5人が居並ぶ中、校長が訓辞し、謹慎期間の通告がなされる。その後も担任は家庭訪問して、家庭謹慎期間に十分反省しているか確認し、毎日書くように義務づけている反省日誌なるものを点検したりする。ことは生徒の教育的な指導に関わることなので、いいかげんなことはできない。

そういう膨大な仕事が生まれることにもなるので、不正行為は発見することよりも、させないことが一番重要なのである。だから、妙な動きをする生徒に対しては、本人にわかるようにじっと見つめたり、机の横に行ってしばし立ち止まったりして、さりげなく警告するのである。そんなことをしなくても済む場合がほとんどだが、あきらかに隙を狙っているなというようなときは、試験終了のチャイムが鳴って何事もなく終わると本当にほっとしたものである。

#試験監督(1)

高校には定期考査というものがある。3学期制の頃は年5回だったが、前期後期制になった今は4回だったろうか。その試験監督は、自分の教科の監督をするわけではない。機械的に割り振られる。自分の教科の場合は、何か試験問題に問題や質問が出た場合に対応できるように、その時間は監督からはずされるのがふつうである。

この試験監督というのは授業をやるよりはるかにしんどい。授業だったら、教材を使って教える訳だから、教師は能動的にかかわれるが、試験監督はひたすら見張り続けるだけという受動性を強いられる。だから、時間が経つのがやたら遅い。50分なら50分の間、ひたすらその50分が経過するのを待つ。もし、その間に本を読んだり、採点できればいいのだが、それは許されない。じっと不正行為がないように目を配るのである。

だれだったか忘れたが、先輩教師から、おれたちは、この試験監督という非生産的な時間でどれだけ人生の時間を空費させられているだろうか、教員人生を通してその時間を合計したら相当なものになるぞ、と話しかけられたのを聞いた覚えがある。またある先輩教師は、おれは机間巡視しながらひたすら数を数えることにしている。そうすると、時間が経つのが速くなる気がすると教えてくれた。一度試してみたことがある。試験問題を配り終えてから、いーち、にーい、さーんと心の中で数え始めた。試験時間が50分として、一つ数えるのに1秒かけるとすると、1分間に60回数えることになるから、50分×60で、3000まで数えればピンポン、カンポンと終了のチャイムが鳴る計算だ。だが、1000ぐらいまで数えてバカバカしくなってやめてしまった。かえって、その無意味さによって時間が経つのがいっそう遅く感じられ始めたのである。

これはいわば、禅の「無」の境地にはいるような悟りの修業のようなものかもしれない。どう頑張っても未熟者の自分に「無我」にいたる修養が出来る訳がない。頭の中を空っぽになどできない。なら、適当な邪念を核に思念を紡げばいいのかもしれないと思ってみたが、考えるべき適当なテーマが都合よく浮かんでくるわけでもない。それに、もし何らかのテーマにそって思考をめぐらしたとしても、その思考過程のいちいちを紙にメモしながら、次の思考段階に進むというような段階を追う作業が許される状況にはないので、ちょうど悩み事を夜中に蒲団の中で考え、堂々巡りしてのたうつような不健全なことになってしまう。

生徒は問題を解くという明確なモチベーションによって集中できるのだろうが、そういうモチベーションがないままただ時間を食いつぶすことを強いられる試験監督という仕事は、ある意味で一種の苦行である。

#修学旅行(6)

学年主任として引率した時、佐藤雅子先生のクラス(すでに男女共学になっていた)にやんちゃな男女の班があった。前日の夜に夜更かししたのであろう、男子生徒がいつまでも起きて出てこないのであった。全体の出発もその影響で多少遅れたのかもしれない。その日は東京ディズニーランドに行く最終日だった。園内に入ってから全員は自由行動になったが、ペナルティーでその班全員を立たせて、30分足止めしたことがある、一刻も早く乗り物に乗りたいのでみんなじりじりしていた。「あんたらが馬鹿だから、わたしたちまでとんだ迷惑だ」と女子生徒がその遅刻してきた男子生徒たちをなじり、さすがにやんちゃな男子生徒たちもしおれていた。その様子を横で見ていて、おもわず笑ってしまった。「足止め終わり」、と告げると全員、脱兎のごとく目的の乗り物に向かって駆け出したのであった。本当にパッパラパーな連中であったが、雅子先生のからっとした性格を反映したのか、悪気の無い面白い連中であった。そのダッシュしていく後ろ姿はコミカルな青春映画の1シーンのように思い出されるのである。

担任としては何度も行った修学旅行であったが、はじめて学年主任として引率することになった時は、その責任の重さを考えると、あれこれの段取りが始まる夏休み前から、ずっと緊張しっぱなしだった。道を走っている観光バスをみかけるだけで、連想で修学旅行の準備のことが思い浮かび、ズーンと気分が重くなったりしたのであった。

そんな折だったか、修学旅行の生徒指導係を何度もつとめた経験豊かな問谷先生と飲む機会があった。「今からそんなに心配してもしょうがないよ。行く前の段取りは細かく、想定できることはきちんと細心に詰めておく必要はあるが、行ってしまったら何とかなるものだ、何かあってもみんなで対処すればなんとでもなる。むしろ、教員がすべてきちんとやろうとしてピリピリしすぎると、それは生徒にも感染して、旅行の空気が重くなってしまう。締めるべきところを締めれば、後は多少のことは目をつむるぐらいの方がうまくいくもんだ。何か問題が起こってもそれは当たり前だというくらいに考えて、どんと構えていればいいんだよ」といった主旨のことを言われて、気持ちがすっと軽くなったのを覚えている。ありがたかった。

言葉と言えば、長谷川先生から言われた言葉を覚えている。「修学旅行の時だけ特別にきちんとしようったて、それは無理な虫のいい話だ。日常の生徒の指導がきちんとできていれば、問題なんか起きない。普段手を抜いておいて、修学旅行のときだけきちんとしようなどとは土台無理な話である。何か問題が起こるとすれば、それは日常の学校での教師の指導に原因があるのである」というような趣旨の言葉を聞いた記憶がある。正論であり、耳に痛い言葉であった。

まあ、そんなこんなで、修学旅行を引率するどの教員にも生徒の目からはみえない苦労や喜びがあったのである。だから、無事千歳に着いて解散式が終わった時の安堵と解放感はひとしおであった。やっとゆっくり眠れる。その思いは教員も生徒も同じだったかもしれない。

#修学旅行(5)

思い出すと、どうしてもしんどかった特別な記憶が先に思い浮かんでしまうが、総じては楽しい記憶の方が圧倒的に多い。脈絡なく記す。今でも覚えているのが、担任として行った時の奈良の自主見学である。明日香をめぐるコースを選んだ7人グループと一緒に行動したことがある。レンタサイクルを借りて、田舎ののどかな秋の風景の中、石舞台や飛鳥寺を巡るのである。その時、レンタサイクル代を節約するため、僕を含めて8人で4台の自転車を借りた。今では許されないだろうが、二人乗りで走り回ったのである。ぼくは一人の生徒を荷台に乗せてガシガシとペタルをこいだのであった。黄色く実をつけた柿の木の下などを連なって走りながら、高校生に戻ったような気分になったのであった。

一度だけ、副担任として引率したことがある。英語の大橋先生と庄田先生の副担であったと思う。担任や学年主任と違って、責任はとても軽いので、気楽であった。その3人でダジャレを飛ばしながらの珍道中であった。京都の保津川を船で下ったり、嵐山の土産物屋を覗いたりした。そこに「はりはり漬」というのを売っていた。「この漬け物は急いで食べなくてはいけないんですよ」「なんで?」「hurry!hurry!漬けってね」などとばかなダジャレを競い、飛ばし合ったのをなぜかはっきり記憶している。東京の自主研修の時間には3人でパチンコに行った。庄田先生が勝ったように思う。その後、お上りさんで、東京タワーの見学に行った。いい旅であった。

担任として引率した時、京都で朝一番に平安神宮に行く旅程の時だった。その平安神宮の池の飛び石を渡っている時に、クラスの一人の生徒が足を滑らせて池に落ちたことがあった。そんなに深くはないが、生徒はずぶ濡れになって上がって来た。後を他の先生に頼んで、旅館に連れ帰って着替えさせることになった。タクシーを拾おうとしたが、そのずぶ濡れ状態では乗せる訳にはいかないと何台も乗車拒否された。近くのお店に行ってビニールの大きなゴミ袋を買い、これを下に敷くからと頼み込んでやっと宿まで帰ることが出来た。ジャージに着替えさせて、再びタクシーで一行を追いかけて次の見学地で本隊と合流したのであった。思いもよらぬハプニングであった。(・・・続く)