#長~~い話

怪談話を書いていて思い出したことがある。ぼくは小さい頃、家の離れで祖父母と暮らしていたことがある。その頃はテレビなどないから、夜は長い。祖父母は昔話や怪談、適当な作り話などの夜伽話で僕を寝かせつけるのである。毎晩やっているうちにだんだん話のタネも尽きて来る。そうすると今思っても、実にいいかげんな話もしてくれたものだと思う。

その中に今でもバカバカしいので覚えているものがある。

「今日は長ーい、長―い話をしてやろう。」僕は期待でわくわくする。「空からなあ、長~~い、長~~い、長~~い、長~~い、長~~い、長~~い、長~~い、長~~い、長~~い、長~~い、長~~い、長~~い、長~~い・・・・・ふんどしが落ちて来たそうだ。おしまい。」

他愛のない話である。ぼくは、これを小さい息子を寝かせつけようとして、同じように話してみたことがあるが、息子は怒ったのであった。当然である。

その離れの裏には川が流れていたので、ぼくはいつも川音と共にその夜伽話の雰囲気を思い出す。冬は、風よけに小さな屏風が枕元に立てられていた。その粗末な屏風には俗な山水画のようなものや墨で書かれた古歌のようなものが貼り付けられていたが、それも子どもにはちょっと不思議で怪しい世界で、いろいろ想像力を刺激された。

祖父は蒲団の中に腹ばいになり、枕元に煙草盆を置き、きせるで煙草を吸いながら、夜伽話を語ってくれた。裏の川のほとりを「ことうじ」という人さらいのようなものが歩いている。「ほら、足音が聴こえるじゃろ」とリアリティを持たせたり、あの裏の川の淵で祖父の小さい頃の友達がおぼれ死んだとか、小窓から隣の家の柿の木が見えるのだが、その柿の木で隣の婆さんが首をつって死んだことがあるとか、どこまで本当か確かめようがないが、どこか死の匂いのする怖い土俗的な暗さが記憶の底に残っている。ぼくはその後、文学にはまったが、その原体験のようなものであったかもしれないと思い返すのである。

その祖父母はまだ土葬の習慣が残っていた故郷で、丸い棺桶に入れられ埋葬された。文字通り桶なので、内部に空洞がある。年月が経つと土や墓石の重みで少しづつ陥没してくる。その地面の歪みが大きくなってきたので、昨年、墓石業者に依頼して修復してもらったのだった。今はすべて火葬になっている。怪談話も、江戸時代のものは、土葬が前提になっている。死んでからも髪や爪はしばらく伸び続けるそうだから、幽霊の絵は長い髪に白装束が多い。火葬だと、そういう想像力は働きにくいだろうと思う。

同窓生のコメント中に、読み聞かせの話があって、昔のことを思い出して書いたのであった。ぼくも、息子たちが小さい時に寝かせつけながら一緒に絵本を読んだり、思い付きのでっち上げ物語を語って聞かせたのであったが、幼少期のお話体験の場は、想像力の醸造器のようなもので、成長にとってとても大切なものであると思うのである。最近、スマホに子守りを任せるお母さんたちが増えているという新聞記事を読んだが、肌の温もりを感じる生身の距離はとても大切だと思うのである。

静修の生徒も北海道文学館で読み聞かせボランティアを熱心にやっているようである。一度覗いてみたことがあるが、子どもたちも楽しそうであった。

#見たな~ 見たな~

昔、結核は労咳などとも呼ばれ、有効な治療方法がなかった。転地療養とか栄養を摂るぐらいな対策しかなく、不治の病と恐れられていた。8割は肺結核で喀血などの症状を伴い、小説やドラマでも悲劇を構成する大きな要素であった。戦後はストレプトマイシンなどの治療薬の開発、ツベルクリン検査や予防接種によって、その病気は劇的に抑え込まれた。僕の中学校の時の数学の先生は、戦前にその手術で片肺を摘出したと語っていた。

本当かどうか知らないが、学校の先生は黒板に書くチョークの粉のせいで、発病しやすく、一種の職業病だと言われているのを聞いたことがある。昔のチョークは、黒板消しで消した粉が教室中に靄のように舞ったものである(今のチョークは粒子を重くして、舞い飛ばないように改良されているらしい)。ぼくの高校の時の国語教師の一人がそれを病的に恐れていて、教室に入る前に、冬でも生徒に窓と戸を全開にさせて空気の入れ替えを命じて、しばらくしてから教室に入って来るのであった。それだけ恐れられていた病気である。子どもの頃の怪談の一つを思い出したので、紹介してみたいが、そういう前提で読んでもらいたい。

 

古い高校の男子寮で狭い二人部屋に二人の学生が生活していたんだそうだ。夜は薄っぺらいせんべい布団にくるまって寝るんだが、そのうちの一人が、ある夜に、寒さを感じてふと目を覚ますと、隣に寝ているはずのもう一人の学生の姿がない。暗い中で、隣を見ると、今抜け出したばかりの様子で蒲団は人の形に盛り上がったまま、中は抜け殻だったんだそうだ。便所にでも行ったんだろうと思って、そのまま寝たんだそうだ。

朝になって目を覚ますと、その男はちゃんと蒲団の中にいる。そんなことが何晩か続いておこる。何か変だなーと思い始め、ある晩、寝ないで様子をうかがっていると、夜中の2時過ぎに、そーと蒲団を抜け出す気配を感じたのである。いったい何をしているのだと不思議に思い、そーっと後をつけてみたんだとう。男は足音を立てないようにそーと廊下を歩き、縁側から裸足のまま暗い庭におりて、真っ暗闇の道を歩いていく。いったいどこに行くんだろうと怪しがりながら、気づかれないように身を隠してその後を追っていくと、男はお寺の裏に入っていくのである。恐る恐るついていくと、寺の裏手の墓地が見えて来た。男は、まだ新しい土饅頭(土葬の棺桶の上に土を丸く盛った状態の墓)を両手で掘り返し、やがて棺桶の蓋を開けると、前のめりになってその棺桶の中に首をつっこむのである。近くの墓石の陰に身を隠しながら見ているが、怖くて体の震えがとまらない。棺桶の中から「ピチャ、ピチャ」という音が聞こえ、生臭い臭いが漂ってくる。もう、怖くてたまらず、もう逃げだそうと身体を動かしたはずみで、墓石の裏の卒塔婆を倒してしまった。しまった、と思ったが、身体が金縛りになったようになって動かない。男は棺桶から顔を上げてゆっくり振り返る。口の周りは血で真赤になっている。「見たな~、見たな~」。「ギャーーー」。

(この怪談の怖さのピークはこの「見たな~、見たな~」。「ギャーーー」であり、語り手の迫真の演技力が問われる。話としては、ここで終わりである。二人がその後どうなったかが語られることはなかったので不明なのである。しばらく間を置いて、その男の行為の動機が語られる。先に述べたように、当時は結核の特効薬などなかったから、栄養を摂るのが一番だと考えられていた。その中でも一番効くのが人間の生き血を飲むことであるという話があった。だが、人を殺すわけにはいかないから、結核に苦しんでいた男は死んだばかりの新鮮な遺体(土葬であることが前提)の墓を暴いて、その遺体の腹を裂いて、血を啜っていたのである。という解説が、語り手によって加えられるのであった。)

 

先に黒板のチョークの話を書いたが、静修の黒板は以前材質の悪い板が使われていた。その頃、チョークで板書していると、何かの加減で「キ――ッツ」という高音の実に嫌な音(ガラスを尖った金属か何かでひっかくと似たような音を出すことが出来る)がすることがあった。その時、ぼくはこの悲鳴のような音は、黒板のチョーク粉を遠因として結核を発症して死んだ教師の哀しみの悲鳴であると想像してみたことがある。

#ブラックアウトの夜(補・静修版百物語 3 )

言葉は意味を表すと同時に、その音の響きのイメージを伴います。例えば、サ行(S音)はさらさら、さわさわ、すいすい、せせらぎ、爽快など、さわやかなイメージを与えます。そういう意味では「静修(せいしゅう)」という響きは澄んださわやかさを音の響きに秘めていると思います。これが「ぜいじゅう」と濁音になれば、重く、濁った響きになってしまいます。字を当てて「贅獣高校」など、贅肉のついた獣のようで、最悪です。

カ行(K音)は金属的な響きになります。その語の響きは商品の売れ行きに直結する大切な要素なので、ネーミングには膨大なエネルギーが費やされるそうです。車の車種名にはこのS音とK音が圧倒的に多いそうです。いろんな車種名を思い浮かべてください。

ナ行(N音)は粘りを、ハ行(H音)は軽さを、濁音は重さを感じさせるそうです。怪獣の名前は、圧倒的にゴジラ、ガメラ、キングギドラ、キングコングなど濁音が多いのです。

「静修百物語」で、「べとべとさん」ならぬ「へとへとさん」を登場させました。「べとべとさん」だと背中にベタ-と貼りつくイメージがありますが、「へとへとさん」とか「へろへろさん」だと疲れ切ってよしかかってくるイメージが強くなります。

戯れに番外編で「もこもこさん」を登場させてみます。

 

静修高校には、どの教室にも、もこもこさんがいます。特に昼休みの後の5時間目に出現してくる頻度が高いと言われています。床をもっこり、もっこりと盛り上げるようにしみ出して膨らんでくるのだそうです。そして、集中力が落ちて眠そうな生徒の椅子の下に潜り込むと、椅子の足を這い上り、その生徒の顔や頭を覆うようにしがみつきます。そうすると、その生徒の頭の中はもやもやと霧が立ち込めたようになって、先生の言葉も黒板の文字も朦朧としてきて、すべてが曖昧模糊として理性的な判断が出来ない入眠状態になってしまうということです。それは生徒だけにとりつくわけではありません。時に先生もターゲットになります。そうなると、先生も自分が何をしゃべっているのかもわからなくなり、頭の中がふにゃひゃらひょという言葉で充填されてしまい、まっとうな授業が出来なくなります。

もこもこさんは、時に、ある一つの教室をターゲットにして集団で襲いかかってくることがあります。そうなると防ぎようがありません。先生も生徒も、よだれをたらしたり、大きく口をあけたり、椅子に座ったまま海藻のように揺れ出したりして、もうぐにゃぐにゃです。

こうなるともう打つ手は全くありません。黒板には無数の模糊、模糊、模糊という漢字が現れ、床下あたりから「Ⅰ my 模糊」というわけのわからない呪文が聞こえます。

でも、授業終了のチャイムの音とともに、もこもこさんはすーとかき消えてしまいます。生徒も先生も何事もなかったように正気に戻ります。でもその授業の間に起こったことは全く覚えていません。何事もなかったかのように先生は教室を出ていき、生徒は雑談を始めたり、トイレに行ったりします。つまり、空白の1時間があるだけで、実害は全くありません(無意味な1時間であったという害はあるかもしれませんが)。ただ、何故か「曖昧模糊」という字はみんな書けるようになるのだと言いますから。それはもこもこさんからのお土産のようなものかもしれません。一説には妖怪「睡魔」の親戚筋にあたるのだとも言われています。

 

かくかくさん、こきかきさん、けろけろさん、さわさわさん、しんしんさん、すいすいさん、そろそろさん、たかたかさん、ちんちんさん、つんつんさん、てろてろさん、とろとろさん・・・・きりがありません。こういう妖怪名にキャラを与えて、活躍させてみられたらいかがでしょう。ユニークな発想と妄想力に期待するのであります。

#ブラックアウトの夜(補・静修版百物語 2 )

ネタの一部に使った「かごめ かごめ」や「コックリさん」についてはその起源や歌詞の解釈について諸説入り乱れて存在するようですが、ぼくは学生時代に読んだ民俗学のうろ覚えの説を下敷きに適当なことを書きました。ちょっと気になったので、民俗学者の柳田国男の説を読み直してみました。

「かごめ かごめ」については、もともと神降ろしの神聖な神事のようなものがあり、それを村の若い男女たちが雇い主の大農の台所や寄り合いの集まりのような場で真似て、円陣を組み、その中央に一番「朴直な」一人を座らせ、神仏の名を唱えたり、あれこれ言い掛ける、そうすると2,30分もするとその若者は催眠状態に入って、変になり、いろんなことを言い始めるという一種の危ない遊戯に変化し、その形をさらに子どもたちが真似て、「かごめ かごめ」の遊戯に発展していったのだと推測しています。「明治になってから入って来た」という「コックリさん」も同じ系統の戯れであると述べています。(「小さきものの聲」)

柳田は「こども風土記」の中で「鶴と亀がつーべった」という歌詞は地方によっては「つるつるつーべった」とも歌われると書いています。たぶん「つるつるつーべった」が古形で、だれかが「つるつる」を「鶴と亀」に読み替え、それが流布して一般化した結果、意味不明の謎めいた歌詞になったのではないかと想像します。柳田は次のようにも述べています。

「この「かごめ」は身を屈(かが)めよ、すなわちしゃがめしゃがめということであった。誰が改作したか、それを鷗(かもめ)のように解して籠の中の鳥といい、籠だからいつ出るかと問いの形をとり、夜明けの晩などというあり得べからざるはぐらかしの語を使って、一ぺんに座ってしまうのである」

いずれにしろ、謎めいたどこか怖いわらべ歌であります。子守歌にもそういう謎めいた、時に残酷な歌詞があります。英国のマザーグースもそうです。古くから語り伝えれれている内外の昔話にもそういう傾向があります。過去にあった歴史事実に重ねて読み解く手法で書かれたものもいっぱいありますが、ある種の暗さを伴った謎に満ちた前近代の童謡や昔話は想像を刺激すると同時に、妙な怖さを持っています。

関係ありませんが、「言うことを聞かないと(早く寝ないと)山からモウコ(あるいはモッコ)がくるぞ」という子どもに対する脅し言葉が北海道にあるという記述を読んだことがありますが、僕は知りませんでした。ご存知でしょうか。ではこの「モウコ(モッコ)」とは何だという問いかけの記述でした。東北由来の言葉のようですが、もし、その脅し言葉を聞いたことがあるという方がいらっしゃいましたら、教えてください。

#ブラックアウトの夜(補・静修版百物語 1 )

コメントを読みながら、あれこれ考えました。

例えば、「半魚人の干物」について、後の話の展開予測を読みながら、それもありだなーと何度か思いました。鴨々川というアイディアがありましたが、静修の生徒による鴨々川清掃ボランティアの活動とからめても話が作れそうだし、ラストをアリにしましたが、カニのほうがイメージしやすかったかもしれないとも思いました。アリが対価を求めなかったことに、愛の無償性を読み取ったコメントがありました。それを意識して書いたのではなく、もう食うところがないだろうと適当に処理したのでありましたが、なるほどそういう読みも成り立つなあと思ったのでした。ハッピーエンドを期待した予測のアイディアも発展させられそうだなあと思ったのでした。半魚人が元恋人と再会出来たらよかったのですが。なぜ、半魚人が静修のプールに棲みついたのかという因果はあえて不条理なのだとしましたが、何かの因果を考え出すこともできそうです。

半魚人の干物がもう目がないのに涙を流せないだろうというツッコミもありました。確かにそうではありますが、物理的に流す涙だけではなく、心理的に流す涙というものはあると思うのであります。本当に悲しい時に、物理的に流す涙よりももっと感情的な深部で涙が流れるということはあるように思います。そういう経験のある方もいらっしゃるかもしれません。科学的ではない、文学的な発想ではありますが。

半魚人ないし人魚が静修のプールに棲みついたという設定を一つの話の「タネ」としたとして、たとえばそこから想像力によって無限のバリエーションが「芽」として生み出されて話が成長していく可能性はいくらでもあると思います。

ぼく一人でも「百物語」百話ぐらいならでっち上げられそうにも思いますが、どうしたって、発想がパターン化して、陳腐なものになってしまうだろうと思います。「新・静修百物語」というようなことを想像すると、同窓生の方々がオリジナルストーリーを考えてお話を組み立てられ、それぞれのアイディア作品を持ち寄れば、バラエティーに富んだ百話くらいはあっという間に達成できそうに思います。同窓会のホームページにそういう作品募集のコーナーを設けて、その作品を掲載し、出来栄えを競うという遊びもできそうです。それは妖怪でも幽霊でも化け物でも(その区別がよくわかりませんが)、都市伝説でも、超常現象でも、未確認飛行物体でも、未確認生物(たとえば、ツチノコみたいなやつが学校の敷地内にいるとか)でも、ちょっと不思議な現象を話に組み込んであればOKというようなことで。

妖怪と言えば、水木しげるの漫画は子どもの頃からよく読んでいました。水木の出身地である鳥取県の境港市にある水木しげるロードに行ったことがありますが、そこの土産物屋で「妖怪汁」というラベルの缶ジュースを売っていました。どんなジュースなのか、気持ち悪くて買いませんでしたが、「半魚人の泪汁」とか「半魚人のするめ」を商品開発し、静修の購買で販売したら、売れないかもしれないが、話題にはなるだろうなあ、などと馬鹿なことを考えるのであります。「校長愛用 悪霊退散幣」とか「巫女舞セット(ノンアルコール口噛み酒付き)」とか、「静修オリジナルゆるキャラ へとへとさん」とか「鯉(恋)の怨み晴らし桝」だとか「ミニひな人形 三人官女ダンサー・五人囃子ロッカー」とか「静修セーラー服着せ替え人形 スケ番・ミニスカ・ヤマンバ・ルーズ・埴輪」など荒唐無稽の学校名物を妄想してみるのであります。ただ、その前提には「静修百物語」がメジャーになることが前提でありますので、当然ながら、残念ながら、全く実現性はありません。それより、こんなの売り出したら、いったいどんな学校なのよと気味悪がられるでしょう。

#講演会や文化行事など

静修に勤め始めたころに驚いたことがいくつかある。60周年記念誌の編集作業をしていた時の資料に、毎年行われていた文化講演会の講師の名前があった。渡辺淳一、佐藤愛子、岡本太郎などが講師に呼ばれていたと知り、びっくりしたのである。その60周年の時にはその講演会の担当を任され、『いないいないばー』とか『龍の子太郎』、モモちゃんシリーズなどで知られる児童文学者の松谷みよ子が講師として候補にあがり、直接、電話して交渉したことがある。最初その電話は助手のような女性が受け、すぐに本人が出てこられて緊張した記憶がある。幸いにこころよく講師を承諾いただき、ほっとしたのを覚えている。当時の松谷作品のテーマが戦争だったこともあり、その事前指導にエネルギーを使った。当日は千歳空港まで迎えに行き、講演後、夜に会食していろいろ話した記憶がある。氏からはサイン入りの著書をいただいた。氏は民話の収集にも熱心で、その『現代民話考』全8巻(?)は静修図書館にあると思うが、その中の1巻に「学校の怪談」があったように思う。

以後も毎年、文化講演会は継続され、70周年の時の講師は思い出せないが、80周年の時の講師は椎名誠であった。身体が大きくてがっちりした、さすがに探検好きの作家だと思ったことである。その『岳物語』という作品は子育ての最中であった当時のぼくの愛読書であった。

毎年の講演会は全校生徒を聴衆としていたが、やがて特定の1学年を対象にするように変わったように記憶する。聴衆の人数が多ければ多い程、集中させるのが難しいという事情も働いていたのかもしれない。私語や居眠りといった講師に対して失礼なふるまいを注意するのに規模が大きいと手が回らないのである。先日、新聞に大学の先生が道内の地方の高校で講演した時のことを書いたコラム記事が載っていた。生徒の聴く態度の無礼さに怒り、それを注意しようともしない先生たちに対しても憤っていた。その気持ちはわかるが、一般の講演会のように、その演題や講師への関心をもって集まった聴衆で構成されるのとは違い、みんなが興味を持っているわけではない多人数の生徒に半強制的に話を聞かせるのは容易なことではないのである。今も行われているのであろうか。

他に、図書館講演会というのが毎年図書館内で任意参加として行われていた。規模としてはちょうどいいくらいだが、放課後実施で任意なだけに、講演を聞く参加生徒を集めるのに苦労したのであった。作家の「探偵はバーにいる」で知られる東直己や直木賞作家の藤堂志津子にも講演してもらった。藤堂は直木賞受賞直前だったと記憶するが、受賞後だったらとても来てもらえなかったであろう。

これも毎年行われていた文化行事は音楽や映画や演劇の鑑賞を行なうもので、よく教育文化会館を会場にして実施されていた。本物の芸術に触れさせようという意図で始ったのであろうと推測する。

さて、もう一つ、静修に赴任した当時驚いたのが、「静修高校研究紀要」と「静修教科研究」という2誌が毎年発行されていたことであった。ぼくもよく書かせていただいたが、前者が個々の研究テーマに基づくレポート類、後者は教育実践の研究例や研究会の参加報告で構成されていた。こういう紀要冊子は大学では多く発行されているが、高校でそういう誌を出しているというのはほとんど聞いたことがなかったのでびっくりしたのである。今は、だいぶん厚さが薄っぺらくなってきたようだが、この2誌の編集企画と利用の仕方によっては教育力の底上げに大いに資すると思いもする。

いずれにしろ、1学年が12とか13クラスとかであったころは学校に様々な意味での勢いがあったことは確からしく思い起こされるのであるが、あるいはそこには回想的な美化の心理が働いているだけなのかもしれないとも思いながら書いてみた。

#チャッピーと怪談(4)

先の共同研究のなかで、澤井先生が当時の現役の生徒、卒業生、教職員、購買の方、毎晩校舎を巡回する管理人さんなどに取材して収集した静修の怪談話が紹介されている。その見出しの項目だけを拾ってみる。

「生徒玄関の鹿」、「エレベーター」、「地下プール」、「トイレ」、「テニス部の部室」、「体育館」、「オーラが見える先生」、「北校舎」、「玄関(ロッカー)」、「病院跡地説」、「怪談踊り場の鏡」、「放送局」、「5階の女の子」、「教室の窓から外を見る女の子」、「教科書」、「修学旅行」、「首無し4番」、「卓球部」、「夜中、校舎から顔を出す少女」、「昼休みのワンマンショー」、「本校舎理科室~音楽室廊下」、「西校舎」、「夜中の足音」、「写真の煙」、「窓の外の影」、「オルゴールの怪」、「何かに押された(本校舎の教室にて)」、「図書館の怪」、「購買の怪」などである。ああ、あのハナシかなと思い出される方もおられるかもしれない。それぞれに具体的な怪異話が紹介されているが、省略。

ただ、想像も含めて紡ぎ出された怪異譚には、まことしやかに語られた事実に反するウソも混じっている。その想像上のハナシと事実を混同するのは危険である。その点は澤井先生も危惧しておられる。「他の怪談同様、静修の怪談話には事実とは全く違う内容も多く含まれる」として、エレベーター事故で死んだり、プール授業で溺死した生徒もいないし、学校が病院跡地に建てられたというのも、きちんと調べれば明らかだが、全く事実に反している。二基あるエレベーターの片方が使われなかったのも、そこで事故があったからなどということではなく、二基を稼働させる必要性が低く、経費やメンテナンス的な意味でも無駄だから稼働させなかったのだということらしい。

だが、それでは面白くないので、いろいろな想像的な尾鰭がついてしまうのである。でも、そうした身もふたもない事実を越えて、怖い、あるいは可笑しいという話はある。そういう想像力豊かな生徒もいたのであろう。そうして生み出されたハナシの内、代々に渡って受け継がれてきたものは、学年を超えて支持され、新たな装いをまといつつ語り継がれてきたのだろうと思う。

同窓生が在籍しておられたころに語られていた怪談にはどのようなものがあるだろう。その記憶の中の怪談を組織的に収集していけば、「静修の怪談」というような冊子が出来そうである。そういう多様な怪談話がたくさん存在するのは、静修高校の100年近い長い歴史とたくさんの生徒が刻んだ精神活動の累積や記憶の厚みによってももたらされているのだと思う。

ぼくも、死んだら、いつか、怖がらせるため、あるいは面白可笑しいおふざけで、幽霊として校舎のどこかに登場してみたい。でも、その前提には、静修高校の校舎が存在していること、ぼくが幽霊として登場した時、それを怖がり、あるいはげらげら笑う(観客としての)生徒の存在が不可欠である。

今、全国的に小中高あわせて年間500校が統廃合などで姿を消しているという。北海道は年間50校が消えているそうだ。地方をドライブすると、もう廃校になった校舎をよくみかける。静修高校という実体が消えたら、死んだ後のぼくの霊は出番がないまま、南十六条あたりをあてもなく彷徨うしかなくなる。それはさびしく、むなしく、怖いことである。

#チャッピーと怪談(3)

チャッピーという命名については、岡部先生の説が有力である。

「今では彼は「チャッピー」と呼ばれている。では、どの時点で名前がついたのであろう?卒業生にいろいろ聞いてみたところ、どうやら男女共学になったころ、つまり10年ほど前に、「彼」は初めて名前を持ったようである。しかし初期のころには、「ドロシーと呼んでいた」「花子だった」などと諸説あり、統一性はない。まだ局地的な名づけであり、共同性はさほどでもなかったようである。それが、ここ数年、「チャッピー」に統一されるようになった。それはTBS系のバラエティー番組「金スマ」のキャラクターが鹿のイラストで、「チャッピー」と呼ばれているからなのだそうだ。(中略)かくして「生徒玄関の剥製の鹿は「チャッピー」になった」。

語りの筋立てやキャラクターの名前が定着すると、今度は、そのハナシの語りという細部が工夫されてくる。一晩中、問谷先生を乗せて走り回った鹿は、さすがに体力を消耗し汗もかく。その証拠に、朝、鹿に触ってみな、毛皮が汗でしっとり濡れているから。というような細部のリアリティで補強されはじめる。ぼくも触ってみたことがあるが、そんな風に言われてみると、なんだか湿っぽいような気もするのである。ただ、ほころびた毛皮の継ぎ目あたりから、中に詰めたわらなどが見えて、チャッピーが生きて来た長い時間を思ったりするのである。どれだけ多くの生徒にチャッピーは愛され、可愛がられてきたのであろうとも思うのである。

毎年、入学式の受付はチャッピーのいる廊下に長机を並べて行われる。新入生が静修に入ってまず印象付けられるのがチャッピーの姿である。そして新入生に対するオリエンテーションが行われる時期に、生徒玄関に横付けされた健診車で結核健診のレントゲン写真を撮ることになる。その時、新入生たちはクラスごとにチャッピーの前の廊下に整列して順番を待つことになる。その順番を待つ間の手持無沙汰に、チャッピーを眺めたり、つついてちょっかいを出したりする姿をよく見かけた。つまり、入学すると同時にチャッピーが高校生活のスタートと共に印象付けられるのである。

文化祭では、招待客に対面して、首輪をさせられたり、鼻輪をつけられたり、花飾りで飾られたりする。卒業の日にはチャッピーの首に抱きついたり、頭を撫でて別れを告げる姿もある。チャッピーは静修の生徒の3年間を見守る守護神のような象徴的存在でもあるのかもしれない。

以前、テレビのニュースにもなったが、静修近辺に(生きた)鹿が現れて、ちょっとした騒ぎになったことがあった、その鹿は追い立てられて豊平川沿いに石山方面に逃げて行ったようだが、その時、前夜、お忍びで、孤独なチャッピーのところに彼女が会いに来たという妄想が浮かんだ。二頭で仲良く夜の校舎から街の夜景を見ながら、甘くささやきかわす姿を想像してみたのである。チャッピーもなかなかやるじゃん。

#チャッピーと怪談(2)

岡部先生は放送局で「チャッピーは草原の夢を見る」というタイトルのテレビ番組を制作されたとのことである(その作品を見たことはないが、とても興味がある。見てみたい)。その際、「放送局員が生徒に取材してみると、「どうしてチャッピーは夜中にはしるのか?」と聞いたところ、多くの生徒から同じ答えが返ってきた。「チャッピーは死んでからも台座にしっかり固定されて身動きが取れなくてかわいそう。だから、誰も見ていないときだけでも自由になりたくて、こっそり夜中に走り回ってるんじゃないの?」

この生徒たちの答にぼくはなるほどとうなったのである。岡部先生は、そこから「固定されて身動きが取れないのは生徒たち自身である」と読み解く。学校という秩序の中で、試験や、校則や、人間関係に縛られて窮屈に「固定されて身動きがとれな」いという心理状態が、台座に固定された鹿の姿と共感的に二重写しになり、せめて無人の夜ぐらいは解放して、自由に走らせてやりたいというような心情的な共感が、この鹿伝説を生み、支えてきたのではないかというような趣旨の分析をしておられる。納得できる解釈である。

澤井先生はその鹿に問谷先生が乗って走り回るという筋立てに注目して次のように分析しておられる。

「バレー部顧問の先生は当時とても怖い存在だったらしい。大柄で、体育館で仁王立ちになりバレー部の指導をする。現在は包容力が全面に出ている先生も、25年前は生徒指導などで恐れられていた。(中略)怪談を語っていた当時の女子生徒たちの気持ちも容易に想像できる。「あの先生、スカート丈長くしていたら(当時はくるぶし丈流行中)すっごく怖い声で叱るんだよね。腹立つけど、大きいし勝てないし、仕方ないからスカート普通丈にしたさ。でも、悔しい~。鹿の剥製の上に乗っけてやる!」かくして化学の先生は鹿の上に乗り、しかも王子様の格好をしていたなどというバリエーションまで発生する。王子様の格好の話を作ったのはバレー部の生徒かもしれない。日ごろの練習の恨みを想像の中で間抜けな格好をさせることによって晴らす・・・」。

すでに流布していた鹿伝説の基本の枠組みを利用して、こうした新たなバージョンが生まれたのかもしれないなあと思う。でもこのハナシには顧問教師に対する生徒たちの愛が感じられる。

ところで、あの鹿は、いつから、なぜチャッピーと命名されたのだろう。(・・・続く)

 

#チャッピーと怪談(1)

静修高校で最も知られた怪談(伝説・言い伝え)は生徒玄関前の廊下に飾られた鹿の剥製(チャッピー)が夜な夜な校舎の中を歩き回るという話であろう。いろいろな語りのバリエーションがあるようだが、それがいつ生まれたのか、いつチャッピーと名付けられたのははっきりしない。先に引用した「共同研究 学校の怪談」の澤井先生、岡部先生の分析を読み直すと、ある程度の輪郭は浮かび上がってくる。

岡部先生によると、「あの鹿は寄贈されたもので、寄贈されたのは昭和41年。まだ現在の校舎が建つ前の出来事だ。寄贈者名も台座に書かれているが、詳細については、今はもうよくわからない」そうである。だとすると、あの鹿伝説が生まれたのは、少なくとも寄贈された昭和41年(1966年)以降である。岡部先生は「現在の新校舎が建つ前の出来事だ」と書いておられるが、静修の歴史年表を見ると、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)に「新校舎落成記念式典」が行われたとあるので、新校舎落成以後と考えられる。とすると、寄贈された年にはすでに新校舎の現在の位置に設置されたとも考えられる。と仮定すると、もっとも古く見積もって、あの鹿はあの場所で42年間立ち続けているということになる。

では、いつ頃鹿伝説がうまれたのであろうか。岡部先生は「私が勤務した21年前からすでに、「あの鹿は夜になると校内を走るらしい」「エレベーターに乗って移動するんだって」などという話がまことしやかに話されていた」と書いておられる。この文章が書かれたのが平成21年(2008年)であるから、計算すると平成元年(1989年)にはこの鹿伝説のベースになる部分はすでに広く流布していたと考えられるが、それがどこまで遡れるかはわからない。

澤井先生は、鹿に「バレー部の顧問の先生が乗っているという話は25年前にはあった」という。ということは昭和60年(1985年)にはすでに問谷先生が鹿に乗って深夜の校舎内を徘徊していたわけである。

では、なぜ、この鹿が夜に校舎内を歩き回るという話になったのだろう。(・・・続く)