作法室とひな人形(2)

この初代のひな人形については面白いうわさがある。よくあるパターンと言えば、そうだが、このひな人形の髪がいつのまにか勝手に伸びてしまうので怖い、というものである。これには想像が刺激された。作法室の薄暗い暗がりに、部屋の納戸にしまわれているひな人形が這い出してきて、会話するのである。

男雛と女雛の会話。「君、その髪型もう古くない?」「そうね、平安時代からずっとこれだから、飽きちゃった。今、髪を長くして新たな髪形にチャレンジしようと思うの。生徒たちのように、おだんごにしたり、せいこちゃんカットにしたり、パーマかけたり、茶髪にしたり」「いやいや、君はストレートの黒髪ロングヘアで清楚さを追求した方が似合いそうだがなあ」「うふふ、そうかしら」「あら、あなたの鼻毛も伸びて来たわよ。バカボンのパパみたい。眉毛も白くなって目に垂れ下がって爺くさいわよ。切って整えてあげるわ」「もう、何百年も生きて来たからなあ」。五人囃子たちも参入。「おれはパンクロッカーみたいな怒髪天を衝くふうにしたいな」「わらわはボンバーがよい」「わしはスキンヘッドじゃ」と楽器をチューニングしながら主張する。

深夜の作法室の暗がりから、漏れ聞こえてくるのである。雅楽の曲をパンクロック風にアレンジし、筝や太鼓や横笛、鼓、琵琶を演奏しシャウトするひな壇ステージの五人囃子たち。それに合わせノリノリで髪振り乱し床踏み鳴らし踊り狂う三人官女。そして、リズムに乗って髪を切るハサミのチョキチョキ、飛び散る髪のバサバサ。鼻毛のパラパラ。「おれたちイケてない?」「イエ―ッ!」

ああ、こわ。今、あの初代雛グループはどこにいるのでしょうねえ。

作法室とひな人形(1)

静修高校には作法室というかなり広い畳敷きの部屋がある。作法室というと大正から昭和前期のイメージがあるが、他の学校にもあるものだろうか、よくわからない。

静修は創立が1922年(大正11年)で、女子教育の学校として出発したから、カリキュラムの中に「作法」というような授業が組み込まれていたこともあったのかもしれない。だとすれば、どんな授業であったろうか。畳に正座してお辞儀をするとか、襖の開け閉めの仕方とか、茶道マナーの習得だとか、勝手に想像するが具体的にはよくわからない。

現在、作法室は茶道部や華道部の活動場所として使われており、時に、PTA活動の作業場に使われたり、父母と担任とのクラス懇親の茶話会に使われたりしているが、日常的に授業で使われることはない。

ぼくの作法室イメージはひなまつりと結びついている。3月3日の桃の節句が近づくと、作法室にひな壇を組み立て、ひな人形が飾られる。そして、ひな祭りが終わると、女生徒たちの婚期が遅れたりしないようにと、あわてて片付ける。ぼくはその組み立てと片づけを手伝ったことがある。男雛と女雛の左右はどっちだ(京都とそれ以外の地域では逆だそうだ)、右近の桜、左近の橘というが、どちらに向かっての右左なのだとか、三人官女や五人囃子は何段目であるかとか、その他の小道具の配置はどうすればいいのだとかてんやわんやだが楽しい。3月3日には教職員に桜餅と鶯餅が配られるのが恒例だったが、今も続いているのだろうか。

創立80周年記念誌の「学校行事」の項に「ひなまつり」についての記述がある。それによると、静修のひなまつりは1929年(昭和2年)に卒業生から内裏雛一式が寄贈され、作法室床の間に飾ったのを機に始まったようである。その後、1979年(昭和54年)に卒業生の記念品として二代目の内裏雛一式が寄贈され、現在に至っているとある。ぼくが手伝ったのはこの二代目であろう。では、初代はどこに行ったのであろう。ぼくにはわからない。

常敗弱小朝野球中年団(3)

静修に野球グランドなどなかったから、試合はほとんど対戦相手の学校の野球グランドで行うことになる。その学校が遠い所にあると、その日はやたら早くから起床しなければならない。勝てば高揚した気分で1日が過ごせるかもしれないが、前に書いたように、ほとんど例外なく大差の負け試合である。むなしさ(というほどでもないが)と寝不足とで、その日1日はとても長く感じられたのであった。

シーズンの終わりには、参加校合同であったり、静修単独であったりの打ち上げの飲み会が行われる。多くはすすきののはずれの北光園という焼き肉屋を会場に盛り上がった。いろんな記憶がごちゃ混ぜで不確かだが、女性の先生もよく参加されていたように記憶する。豚足に齧りついている横山先生の姿や、あふれるように盛られて出てくるホルモンの皿のイメージが強い。十分焼ける前に、箸で肉をとるせっかちな小宮先生にだれかが文句をいっていた映像が妙に記憶に残っている。その店を出た後、酔っぱらってみんなで近くを流れる川にかかっている欄干の上を歩き騒いでいた時に、かつて野球小僧であったという佐藤堅一先生が川に落ちてしまったことがある。幸い大した怪我もなかったようである。堅一先生と言えば、その後のスナックで盛り上がり、堅一先生を先頭にみんなで列を作ってヒゲダンスを踊りながらスナックの入ったビルの廊下を練り歩いた記憶も鮮明だ。あの頃は本当に異常なエネルギーがみなぎっていたなあと思いかえす。

試合のときの静修の先生たちの姿は、本当にばらばらだった。古い静修のユニフォームだったり、どっかよそのチームのユニフォームだったり、ジャージであったり、Tシャツにジーパンで出ていた先生もいた。弱小静修チームらしくて、その自由奔放さが好きだったが、相手チームに対してそれでは失礼だろう、という話になって、新ユニホームを作ることになった。ちょうど阪神淡路大震災の後で、オリックスのユニホームが肩に「がんばろう 神戸」と入れているのを真似て「がんばろう 静修」と入れたオリックスに似たユニホームをそろえたことがあった。チームもやがて消滅した。「がんばろう 静修」ユニフォームはしばらく家の箪笥に入っていたが、あれは今、どこにいってしまったのでしょうねえ。

今、本物の静修野球部は真駒内の奥のあたりのグランドを借りて、学校からバス移動して練習しているようである。生徒が嫌っていた水泳授業が行われていたプールの水をぬいて、今はそこが冬場や雨天の屋内練習場として使われているようである。いつか、静修野球部が南北海道代表として甲子園出場がかなったら、このプールの底での練習風景は、苦難を乗り越えた球児の練習の姿として絶好のニュース映像になるであろう。

そんな日が来ることを夢見るのである。

常敗弱小朝野球中年団(2)

静修教員野球チームの監督は、ぼくの知る限りでは体育の鍋谷先生、数学の横山先生、音楽の長谷川先生と変遷した。昔、柔道部だったという横山先生はバンカラな体育会系の強引さの持ち主だった。朝がつらいので、なんとかさぼろうとしても許してくれなかった。早朝の試合会場までの足が確保できないからと逃げようとする先生には、近所の先生に車で迎えに行くように手配し、寝坊して行かなかったり、試合時間に遅刻すると半端なく不機嫌であった。ぼくも遅刻するわけにはいかないので、試合前夜はできるだけ早く寝る。試合会場が遠い時には、夜の2時とか、3時に起きて準備する。

一度、遅れそうになって車を飛ばしていてパトカーに捕まったことがある。ほとんど車も走っていない早朝に隠れて見張っていた警察にはむかついたのであった。一時停止の標識があって、ちょっとブレーキを踏んで、一時停止したことにして通過したら、ウゥゥゥファンファンファン「その車、止まりなさい。そこの車、右に寄って止まりなさい」というパトカーのマイク越しの声がした。あちゃー、と思ったが遅かった。「ここは一時停止標識があります。一時停止違反です」と言われ、「ブレーキはちゃんと踏んで安全確認しました。ストップランプが点くの見えたでしょう」と抵抗したが、「あなたはだいぶん飛ばしていましたね。スピード違反と一時停止違反とどちらがいいですか」みたいな、取引みたいな話になった。罰則金から考えれば、一時停止違反の方がましかと認めたのであった。ぼくの野球ユニフォーム姿をみて「朝野球ですか。試合頑張ってください」と解放された。いらんお世話だ。むかむか、ぷんぷん。

野球道具は古い木箱に入れて、学校の階段下の空間においてあった。グローブやミットやキャッチャーマスクは大きな紺色の麻袋のようなのに詰め込まれ、バットと一緒に突っ込んである。かびと汗とほこりのまざった独特のにおいが今、鼻の奥によみがえった。いつから使っているのか知らないが、グローブの親指部分と4本の指を入れる部分がぺちゃんこにくっついて型崩れしている。革も渇いてぱさぱさだ。その中から、よりましなのを選んで手にはめるのだが、なんだか臭くて分厚い団扇みたいだ。エラーするたびにそいつのせいだと思っていた。エラーといえば、ぼくはライトを守ることが多かったが、ボール飛んできませんように、きませんようにと念じながら守備についていたのである。ぼくは眼鏡をかけているが、ツルがゆるいせいか、フライが上がった時、走りながら玉を追うと、眼鏡が揺れ、視界のボールがギザギザと揺れ動いて見え、落下点が定まらない。落球すると、今度はその眼鏡のせいにした。これではいかんと眼鏡をしっかり固定するゴムのバンドのようなものを眼鏡屋で買ったが、それを使う前に朝野球は終わってしまった。

あの野球道具たちはまだ学校にあるのだろうか。

常敗弱小朝野球中年団(1)

静修が共学になって野球部が出来、最初は負けてばかりいて応援に行っても張りがなかったが、最近では地区予選の全道大会代表決定戦に、組み合わせがよければ勝ち上がるぐらいには強くなったようである。静修勤務の最後の年には全校応援を体験させてもらって感動した。退職してからも、都合のつく限りで応援観戦に行く。

静修が女子高であった頃にも野球部があった。といっても生徒ではなく教員の朝野球チームである。ぼくが静修に勤め出したころは既にあったから、歴史は結構古いと思う。静修に赴任した直後であった。鍋谷先生がやってきて「あんたは野球やったことがあるか」と問うのである。「子供のころは竹バットでテニスボールをひっぱたく程度の野球はやっていました」と答えると、「じゃ、決まりだ。うちの野球部に入ってもらう」という話になった。そのデビュー戦は今でも覚えている。今、盲導犬協会の施設がある近くの公園のような狭いグランドであった。その近くを車で通るたびに思い出す。その試合でぼくはランニングホームランを打ったのである。振り遅れ気味に出したバットがライト線への流し打ちのようになって、ライトの後ろにボールは転々と転がり、その間にホームインしたのであった。勝ったか負けたかは記憶にないが、それはぼくの唯一の活躍したシーンである。朝の職員朝礼でその試合結果が報告されるというのも恒例だった。

試合が終わって学校に帰り、職員朝礼が始まるまでの時間に進路相談室(組合の部屋)でみんなで朝飯を食べながら、笑い騒ぐというのも恒例であった。その朝食のおにぎりやおかずは横山先生の奥さんや、藤野真弓先生、渡部由理子先生が作って来て下さるのである。おいしかったです。食べながら試合の反省みたいなのが行われるのだが、大概は惨敗の原因分析めいた内容を冗談半分に語り合うのである。そして、毎回の総括の最後の決まり文句は「やっぱり練習しないとだめだ」というものであった。だが静修高校にはグランドがないので、全体練習が実行されることはないのである。一度だけ、豊平川の河川敷で定期考査後の時間に練習した記憶がある。仕方ないので、個人練習をしておけ、という話になって、当時はみんなよくバッティングセンターに通った。当時ピチャーだった小宮先生には「ちょっとつきあえ」と言われ、昼休みに体育館でよくキャッチャー役をつとめさせられた。「これからフォークボールの練習をする」「秘密兵器の決め球ですね」「そうだ」などと言葉を交わしながら練習するのだが、「おい、今の玉、ストンと落ちたべ」と確認され、「落ちたような気もしますが、よくわかりません」などと答えると、「なに、もう一球投げるから、よく見ろ」といった具合になるのである。あれがフォークだったのか、引力によるションベンカーブのようなものにすぎなかったのか、今では確かめようもない。

サッカー部がんばれ

妹尾雄太郎先生書き下ろしエッセイ(定期的に書いていただきます。乞うご期待!!)

2018年サッカーワールドカップロシア大会の決勝トーナメントの日本代表対ベルギー戦を朝の3時からテレビ観戦した、2点リードして、うわー、このまま奇跡的にベスト8にいけるかもしれないと一人で騒いだ。だが、甘かった。立て続けに3点とられて、負けてしまったが、攻め続けた結果としての逆転負けなので、これが今の日本サッカーと世界の実力差であろうと、悔しがりながらも納得した。いったん、ふて寝して、起き出した頭に昔のことが思い出されて、これを書き出すことにした。

女子高時代の、だいぶん前の話になるが、担任していたクラスに数人の熱心なサッカーファンの生徒がいた。Jリーグが発足して間もない頃だったように思う。そのころ「札幌にjリーグを」といった、プロサッカーチームの誘致活動も盛り上がっていた。

記憶が曖昧だが、文化祭のクラス展示企画で、その誘致をテーマにした展示をやったりしたこともあった。その時、誘致をアピールするステッカーをたくさん手に入れ、それをその展示会場で配ったのである。それはよかったのだが、文化祭が終わって、片付けに入ったら、そのステッカーがあちこちの机の横やいすの背にべたべた張られているのを見つけたのであった。生徒と一緒に剥がし歩いたが、完璧にはとれず汚いことになって迷惑をかけてしまったのであった。ごめんなさい。

その年(1993年)の修学旅行でクラスの生徒を引率したのであったが、それが、ちょうどワールドカップのアジア地区予選の時期と重なっていた。その出場をかけカタールのドーハで最終戦が行われたのがちょうど東京に入った日であった。ホテルの部屋でテレビ観戦した。日本代表はイラクに2対1でリードし、このままいけば予選突破が決まるはずであったが、終了間際のロスタイムに同点ゴールを決められ、予選敗退が決まってしまった。「ドーハの悲劇」というやつである。ピッチで茫然と立ちすくむ選手や地面に倒れ込む選手の映像を見ながら、じっとしておれなくなって、例のサッカーファンの生徒たちがいる部屋をノックした。大声で泣き狂っている生徒たちに迎えられて、共に悔し涙にくれたのであった。その時、茫然自失で自分の部屋を出たので、オートロックがかかり、締め出しをくってしまったのだった。

それから2年半後、コンサドーレ札幌が誕生した。

静修高校にも数年前、サッカー部が誕生した。英語の倉知先生が立ち上げたそうだ。自前のグランドがないので練習場を求めてジプシー状態のハンディを背負っているようであるが、今年、公式戦に初勝利したと、静修のホームページで知った。応援しています。がんばってください。

 

エピソードで語る 私の静修時代-1

静修の友 『特集』1999№21

 

あの小沢先生が

けじめのないことに対しては大変厳しい、あの小沢先生がプール授業でこんな大ドジ!いつものように説教を受けていた私たちは、小沢先生がプールサイドを歩きながら上に着ているトレーナーを脱ごうとしているのを神妙な顔で見ていました。ところが、トレーナーを脱ぎ切らないうちに、足を踏み外してプールにドボ~ン!叱られていた私たちは、笑うに笑えず、お腹を抱えながら悶え苦しみました。それからというもの、小沢先生は「怖い、厳しい」というイメージから「ドジでお茶目な先生」として人気が上昇しました。(昭和52年卒)

 

南校とピカピカ

授業中、私の顔をピカピカ照らす眩しい光。発信地は窓の外、なんと三丁離れた南校の教室の窓(見通しが良かったのね)。私も負けじと筆入れの中から鏡を取り出し、ピカピカ交信。相手が誰かは全く分からなかったけれど、晴れた日の『心ときめく、眩しい青春』の思い出です。(昭和42年卒)

 

青空見上げて

みなさん、五階の屋上の更に上に上ったことがありますか?確か開かずの部屋(物置?)の屋根の上だったと思います。垂直に下がった梯子から登るのですが、スカートを膝のところでスカーフで縛り五人位で次から次へと登っていきました。そこでひっくり返って青空を見上げているだけですが、とても気持ち良かったです。時間は授業の真っ最中。つまり苦手な裁縫(家庭科)の時間をエスケープ、という訳です。今頃、みんな一所懸命ジャケットを縫っていると思うと焦っちゃうけれど、ジャケットは洋服屋さんに作ってもらいました。突然上手に仕上がって先生は「ビックリ!」でした。(昭和42年卒)**この当時は一クラス64名もいたから5人いなくても気が付かなかった?**

 

**みなさんも高校時代のエピソードがあったらコメント投稿して下さい**

エピソードで語る 私の静修時代

静修の友 『特集』1999№21

 

クラス会で必ず話題になる あの話この話

今だから話せる あの話この話

懐かしくタイムスリップさせて 私の静修時代

 

フォークダンス

西校舎でのこと。入学早々から毎日、放課後がとっても楽しみでした。それは女の子同士のフォークダンス。ところどころに男性の姿も・・。先生方でした。今でもフォークダンスの音楽が流れてくると、和気あいあいと踊ったあの時の光景が浮かんできます。(昭和37年卒)

 

先輩のいたずら

日中でも薄暗い一階の音楽室から理科室の廊下、クラブ活動を終えた一年生が真っ暗になった廊下を手探りで歩いていました。すると前方に、剥製であったはずの鹿が動き出して来るではありませんか。『ギャーァ!』一年生は腰を抜かして立てなくなりました。(昭和51年卒)

 

授業中のエピソード

英語の授業中、飴玉を舐めていた私は、急に名前を呼ばれ、教科書を読まされることになりました。慌てて私は、飴玉を左右に転がせながらなんとか読み終えたのですが・・・。「飴を食べているでしょう?」とズバリ指摘され、ポッペタを膨らませながらも「いいえ、食べていません」と言い張り、しらをきり通しました。しかし、それからというもの、すっかり目を付けられてしまいました。英語は今でも恐怖です。(昭和46年卒)

 

大胆なカンニング

クラスで成績トップのSさん。定期考査で座席が一番後ろになり、たまたま答案が多く配布されたのを戻さず、余裕で二枚解答してしまいました。それから彼女がしたことは・・・。『この紙回せ』と、なんと!全員に回してしまったのです。これでクラスの平均点が上がった事は言うまでもありません。(昭和36年卒)

セーラーと山姥-1

「静修みっけ(5)」(同窓会誌に連載された妹尾雄太郎先生のエッセイ)より抜粋-2000(№30)発行

 

それにしても、最近の流行は度肝を抜いてくれる。ゴールデンレトリバーの毛にいろんな色のペンキをなすりつけて、念入りに爆発させたような頭髪で、火事場から逃げ出してきた直後のようなガングロ顔の上に、白というか銀というか、光るナメクジといった趣のくちびるがはりついている。まぶたの上は白っぽくぴかぴか、てかてかした色に塗り上げ、眼の縁には隈を作り、長いまつげが団扇の骨さながらにパタパタと上下している。その上、超厚底ブーツで、巨大化した有蹄類風にかっぽかっぽと歩いている。そういうファッションであるという予備知識のないまま、街なかでいきなりそういう女性に出くわした時、僕は思わず後ずさってしまった。こういうのをヤマンバギャル(あるいはブタギャルともいうそうだ)というらしいと後で知ったが、ヤマンバとはよくぞ名付けたものだ。ピアスなんてものもだいぶ前から耳だけではなく、いろんな部位につけるのが流行だそうである。鼻の横だとかくちびるの下だとかへそのあたりだとか、もう聞いただけで痛そうでざわっとする。鼻汁だとかよだれとかがあけた穴から漏水することはないのだろうかといらぬ心配をしてしまう。いっそノドチンコあたりにつけてみたらどうだろうか。山姥には似合いそうである。クワッと開いた口に赤い舌。その奥の暗い咽喉のあたりでキラリと光るノドチンコピアス。配色的に絵になる恐怖が演出できそうである。最近は若い女の子たちの間で刺青まではやっているそうだが、何が悲しゅうて・・・と思ってしまう。この調子だと、鼻に鼻輪をぶら下げ、足に蹄鉄を打ち込んで、尻には焼き印をおすなんて人が牧場にではなく、街なかに出現しかねない。

清楚な制服の内側も、清楚であってほしいと願うが、流行に対してこんな保守的な文章を書いているということは、僕も歳をとってきたということなのだろう。

 

セーラーと山姥

「静修みっけ(5)」(同窓会誌に連載された妹尾雄太郎先生のエッセイ)より抜粋-2000(№30)発行

昨年、修学旅行の引率で広島、奈良、京都、東京と回ってきた。ご承知のように、修学旅行では班行動を基本にしており、一人でも時間に遅れたら班全員の責任ということで、夜の自由外出を禁じることになる。同様に頭髪や服装についても厳しく指導する。だから、制服の着こなしも普段よりずっときちんとしている。世の中の流行は茶髪にミニスカートだから、ブレザー型の他校の超ミニ、茶髪集団とすれちがったりすると、とても目立つ。ちょっと離れて見ていると、どこのお嬢さん学校かと思うほど、親子ラインのセーラー姿が清楚で美しく見えた。実際旅先でそんなふうにいわれたこともあった。男女共学化にむけて制服検討作業にも関わったが、結果的には:女子の制服は変えないで従来のままでいこうということになった。その結果は正しかったのではないかと、改めて本校の制服を見直したことである。生徒の中には旅行中、この制服のせいでしょっちゅう中学生と間違えられて嫌だったという者もいた。それだけ世の中の女子高生の制服イメージはブレザー型のミニに画一化されてきているのだろう。逆にいえば、かたくなに伝統の制服を守り続けることが流行の波に洗われる中で、いつのまにか個性として露出してきたということなのかもしれない。実際、札幌市内の高校の多くはブレザー型に変わってきているので、街で見かけてもどこの学校なのか全く見当がつかない。静修とか北星は一見して分かる。それだけ個性的なのだといいたいわけだが、しかし、これにも難点がある。この制服を着て、街なかで下品な会話をしたり、マナーに反するような行為をした場合、即、静修の生徒は・・・ということになる。その意味では多数に埋没していた方が楽ではある。

**山姥のくだりは明日に続く**