#試験監督(2)

暗記型の教科で、ほとんどを記号で答えさせるような作りの試験問題の場合、試験監督は緊張する。基本的に覚えていたらすぐに答えは出る。逆に覚えていなかったらあきらめるか、適当に穴埋めするしかない。考えるために時間を要する必要が少ないので、試験開始から10分とか15分とかで終わってしまう。そうすると、残った時間は試験時間終了まで何もしないでじっと待つしかない。その意味では、試験監督同様、生徒も大変である。ガマの油ではないが、試験監督と、どこか魂の抜けたような表情をうかべている生徒たちとは沈黙のにらめっこの時間に耐えなければならないことになる。

「小人閑居して不善をなす」という言葉があるが、この無為な時間が一番あぶない。暇なもんだから、前や横の生徒の答案を盗み見ようとする。あるいは自分の答案をそっとずらして友達に覗かせてやろうとする(友情に厚い?)やつが蠢き出す。前から見ているとその気配は意外とよくわかる。身体が妙に揺れる。監督の方をやたらちらちら見る。不自然に机の中に手を出し入れしたり、うつむいて机の手前のあたりに目を落とす。

監督の役割は、必ずしも不正を見付けることではない。不正を未然に防ぐことにある。カンニングペーパーのような動かぬ証拠があれば、話は早いが、不正が疑われた場合、その生徒から事情を聞くことになる。見た、見ない、人の答案を見て写した、写さないというやりとりは実に消耗する。先生は私を疑っているのか、生徒のいうことを信じられないのか、などということになると相互に不信感の泥沼にはまる。よしんば、生徒が認めたとしても、その後、教科の会議から始まって何段階もの会議が続くことになる、謹慎の処分が決定すると、生徒本人と保護者にも来てもらって、校長以下、担任を含めて5人が居並ぶ中、校長が訓辞し、謹慎期間の通告がなされる。その後も担任は家庭訪問して、家庭謹慎期間に十分反省しているか確認し、毎日書くように義務づけている反省日誌なるものを点検したりする。ことは生徒の教育的な指導に関わることなので、いいかげんなことはできない。

そういう膨大な仕事が生まれることにもなるので、不正行為は発見することよりも、させないことが一番重要なのである。だから、妙な動きをする生徒に対しては、本人にわかるようにじっと見つめたり、机の横に行ってしばし立ち止まったりして、さりげなく警告するのである。そんなことをしなくても済む場合がほとんどだが、あきらかに隙を狙っているなというようなときは、試験終了のチャイムが鳴って何事もなく終わると本当にほっとしたものである。

#試験監督(1)

高校には定期考査というものがある。3学期制の頃は年5回だったが、前期後期制になった今は4回だったろうか。その試験監督は、自分の教科の監督をするわけではない。機械的に割り振られる。自分の教科の場合は、何か試験問題に問題や質問が出た場合に対応できるように、その時間は監督からはずされるのがふつうである。

この試験監督というのは授業をやるよりはるかにしんどい。授業だったら、教材を使って教える訳だから、教師は能動的にかかわれるが、試験監督はひたすら見張り続けるだけという受動性を強いられる。だから、時間が経つのがやたら遅い。50分なら50分の間、ひたすらその50分が経過するのを待つ。もし、その間に本を読んだり、採点できればいいのだが、それは許されない。じっと不正行為がないように目を配るのである。

だれだったか忘れたが、先輩教師から、おれたちは、この試験監督という非生産的な時間でどれだけ人生の時間を空費させられているだろうか、教員人生を通してその時間を合計したら相当なものになるぞ、と話しかけられたのを聞いた覚えがある。またある先輩教師は、おれは机間巡視しながらひたすら数を数えることにしている。そうすると、時間が経つのが速くなる気がすると教えてくれた。一度試してみたことがある。試験問題を配り終えてから、いーち、にーい、さーんと心の中で数え始めた。試験時間が50分として、一つ数えるのに1秒かけるとすると、1分間に60回数えることになるから、50分×60で、3000まで数えればピンポン、カンポンと終了のチャイムが鳴る計算だ。だが、1000ぐらいまで数えてバカバカしくなってやめてしまった。かえって、その無意味さによって時間が経つのがいっそう遅く感じられ始めたのである。

これはいわば、禅の「無」の境地にはいるような悟りの修業のようなものかもしれない。どう頑張っても未熟者の自分に「無我」にいたる修養が出来る訳がない。頭の中を空っぽになどできない。なら、適当な邪念を核に思念を紡げばいいのかもしれないと思ってみたが、考えるべき適当なテーマが都合よく浮かんでくるわけでもない。それに、もし何らかのテーマにそって思考をめぐらしたとしても、その思考過程のいちいちを紙にメモしながら、次の思考段階に進むというような段階を追う作業が許される状況にはないので、ちょうど悩み事を夜中に蒲団の中で考え、堂々巡りしてのたうつような不健全なことになってしまう。

生徒は問題を解くという明確なモチベーションによって集中できるのだろうが、そういうモチベーションがないままただ時間を食いつぶすことを強いられる試験監督という仕事は、ある意味で一種の苦行である。

#修学旅行(6)

学年主任として引率した時、佐藤雅子先生のクラス(すでに男女共学になっていた)にやんちゃな男女の班があった。前日の夜に夜更かししたのであろう、男子生徒がいつまでも起きて出てこないのであった。全体の出発もその影響で多少遅れたのかもしれない。その日は東京ディズニーランドに行く最終日だった。園内に入ってから全員は自由行動になったが、ペナルティーでその班全員を立たせて、30分足止めしたことがある、一刻も早く乗り物に乗りたいのでみんなじりじりしていた。「あんたらが馬鹿だから、わたしたちまでとんだ迷惑だ」と女子生徒がその遅刻してきた男子生徒たちをなじり、さすがにやんちゃな男子生徒たちもしおれていた。その様子を横で見ていて、おもわず笑ってしまった。「足止め終わり」、と告げると全員、脱兎のごとく目的の乗り物に向かって駆け出したのであった。本当にパッパラパーな連中であったが、雅子先生のからっとした性格を反映したのか、悪気の無い面白い連中であった。そのダッシュしていく後ろ姿はコミカルな青春映画の1シーンのように思い出されるのである。

担任としては何度も行った修学旅行であったが、はじめて学年主任として引率することになった時は、その責任の重さを考えると、あれこれの段取りが始まる夏休み前から、ずっと緊張しっぱなしだった。道を走っている観光バスをみかけるだけで、連想で修学旅行の準備のことが思い浮かび、ズーンと気分が重くなったりしたのであった。

そんな折だったか、修学旅行の生徒指導係を何度もつとめた経験豊かな問谷先生と飲む機会があった。「今からそんなに心配してもしょうがないよ。行く前の段取りは細かく、想定できることはきちんと細心に詰めておく必要はあるが、行ってしまったら何とかなるものだ、何かあってもみんなで対処すればなんとでもなる。むしろ、教員がすべてきちんとやろうとしてピリピリしすぎると、それは生徒にも感染して、旅行の空気が重くなってしまう。締めるべきところを締めれば、後は多少のことは目をつむるぐらいの方がうまくいくもんだ。何か問題が起こってもそれは当たり前だというくらいに考えて、どんと構えていればいいんだよ」といった主旨のことを言われて、気持ちがすっと軽くなったのを覚えている。ありがたかった。

言葉と言えば、長谷川先生から言われた言葉を覚えている。「修学旅行の時だけ特別にきちんとしようったて、それは無理な虫のいい話だ。日常の生徒の指導がきちんとできていれば、問題なんか起きない。普段手を抜いておいて、修学旅行のときだけきちんとしようなどとは土台無理な話である。何か問題が起こるとすれば、それは日常の学校での教師の指導に原因があるのである」というような趣旨の言葉を聞いた記憶がある。正論であり、耳に痛い言葉であった。

まあ、そんなこんなで、修学旅行を引率するどの教員にも生徒の目からはみえない苦労や喜びがあったのである。だから、無事千歳に着いて解散式が終わった時の安堵と解放感はひとしおであった。やっとゆっくり眠れる。その思いは教員も生徒も同じだったかもしれない。

#修学旅行(5)

思い出すと、どうしてもしんどかった特別な記憶が先に思い浮かんでしまうが、総じては楽しい記憶の方が圧倒的に多い。脈絡なく記す。今でも覚えているのが、担任として行った時の奈良の自主見学である。明日香をめぐるコースを選んだ7人グループと一緒に行動したことがある。レンタサイクルを借りて、田舎ののどかな秋の風景の中、石舞台や飛鳥寺を巡るのである。その時、レンタサイクル代を節約するため、僕を含めて8人で4台の自転車を借りた。今では許されないだろうが、二人乗りで走り回ったのである。ぼくは一人の生徒を荷台に乗せてガシガシとペタルをこいだのであった。黄色く実をつけた柿の木の下などを連なって走りながら、高校生に戻ったような気分になったのであった。

一度だけ、副担任として引率したことがある。英語の大橋先生と庄田先生の副担であったと思う。担任や学年主任と違って、責任はとても軽いので、気楽であった。その3人でダジャレを飛ばしながらの珍道中であった。京都の保津川を船で下ったり、嵐山の土産物屋を覗いたりした。そこに「はりはり漬」というのを売っていた。「この漬け物は急いで食べなくてはいけないんですよ」「なんで?」「hurry!hurry!漬けってね」などとばかなダジャレを競い、飛ばし合ったのをなぜかはっきり記憶している。東京の自主研修の時間には3人でパチンコに行った。庄田先生が勝ったように思う。その後、お上りさんで、東京タワーの見学に行った。いい旅であった。

担任として引率した時、京都で朝一番に平安神宮に行く旅程の時だった。その平安神宮の池の飛び石を渡っている時に、クラスの一人の生徒が足を滑らせて池に落ちたことがあった。そんなに深くはないが、生徒はずぶ濡れになって上がって来た。後を他の先生に頼んで、旅館に連れ帰って着替えさせることになった。タクシーを拾おうとしたが、そのずぶ濡れ状態では乗せる訳にはいかないと何台も乗車拒否された。近くのお店に行ってビニールの大きなゴミ袋を買い、これを下に敷くからと頼み込んでやっと宿まで帰ることが出来た。ジャージに着替えさせて、再びタクシーで一行を追いかけて次の見学地で本隊と合流したのであった。思いもよらぬハプニングであった。(・・・続く)

#修学旅行(4)

いちばん気を使ったのは平和教育ということで始まった広島の旅程である。修学旅行の初日はまず広島に入り、宮島観光をし、その日は広島泊。翌日の午前中に被爆体験の講話を聴くのである。講師の方に失礼のないようにきちんと聞かせることに神経を使った。事前指導ではその点を何度もしつこく指導するのだが、実際には前日に夜更かししているので、居眠りし出す生徒があちこちで出始める。講師の前で大きな声で注意するわけにもいかない。さりげなく、その近くに行って背中をつついて起こして歩くのである。これはやはり恥ずかしかった。

その広島での体験談のひとつを「共同研究 学校の怪談」(『札幌静修高校 研究紀要』41号)という文章中に書いたことがある。紹介的に引用してみる。

<ここで、体験談を一つ。学年主任として修学旅行に行ったとき、帰札後、生徒が広島の原爆資料館で撮った一枚の写真を担任の服部先生から見せてもらったことがある。被爆直後の様子を再現した瓦礫の中にたちすくむ姿の蝋人形を撮ったものだった。その二体の人形を包むようにして、その背後に真赤な炎が燃え上がっていたのである。展示で見た時にはそんな炎の演出などなかったはずである。不思議な気分でその写真をあずからせてもらった。数年後、再び修学旅行で広島にいったとき、照明かなにかの光の具合でそんなふうに写ったのかもしれないと思い、同じ構図で何枚か写真を撮ったが、まったくそんな燃え上がる炎は写ってはいなかった。ぼくには、広島で被爆して亡くなられた犠牲者の苦しみと無念さそのものが念写された写真に思えてならなかった。その写真はそのときの修学旅行で被爆体験の講話をしていただいた方に、講話のお礼の手紙と共に、事情を説明してその写真を同封して送付したことだった。>

先日、原爆資料館の展示がリニューアルされるというテレビのニュースを見ていたら、その被爆直後を再現した瓦礫の中の蝋人形が映し出されていた。最近、こうの史代の漫画『この世界の片隅で』(双葉社)をアニメ化した同名映画を観に行ったのであったが、それを観ながら、今度は一人でゆっくり広島の街を歩き、原爆資料館にも行ってみようと思い立ったのである。

事前学習で、『人間を返せ』というビデオは全生徒が観たはずである。国語の授業では原民喜の「夏の花」という小説を教材として読んだのであったが、覚えておられるだろうか。

#修学旅行(3)

修学旅行の記憶は、その時代の流行と結びついたものが多い。スケ番が流行っていた頃にこれまたやんちゃなクラスの担任として引率したことがある。その時の修学旅行の写真を見ると、くるぶし近くまである長いスカートにパーマをかけてすごんでいるグループの姿が映っている。この生徒たちと歩いていると、他校の生徒たちがザーと避けて距離を置いて離れていったのであった。修学旅行に出発する数日前に心配して、このグループのリーダー格の生徒たちを生活部室に呼んで、生活部長の横山先生や小宮先生が担任に迷惑をかけるような事だけはするなよと諭してくれたと後で聞いた。そのおかげか、旅行中は特に表立つような大きな事件や事故もなく、無事帰り着くことが出来た。今でも感謝している。

ガングロのやまんばギャルが流行った時は、学年主任としての引率であった。この時はとても消耗した。京都から新幹線で東京に移動したとき、前日宿泊した京都の旅館でちょっとした問題が起こり、東京駅で生徒の荷物の点検をするという事態になった。周りを通っていく通行人のいぶかしげに見る視線が刺さってきつかった。

担任として、大変なのが班分けのメンバー決めや、部屋割りである。どうしても仲のいい友達と同じ班になりたいという気持ちはよくわかるが、班の人数には一定の人数枠がある。多すぎたり、少なすぎたり、その辺りを調整しなければならない。そういう時に生徒の性格がよく出る。ごりおししようとする生徒もいれば、私はほかの班に行ってもいいよと譲る生徒もいる。どの班にも入れず、浮いてしまう生徒が出たりする。そういう時に自分の気持ちを抑えて、調整役を買って出る生徒を見ると、「大人だなあ」と感謝したものである。

また班長はいろんな責任が生じるから、あまり積極的にはやりたがらない。ある時、いつまでたっても班長が決まらない班があり、そのうちの一人に「ぼくも何かあったら手伝うから」と頭を下げてしぶしぶ班長を引き受けさせたことがある。移動の際は、その度に班長に全員いるかと確認し、全員そろってから移動を開始するのだが、札幌に帰る飛行機に乗る前に空港で点呼した時、この無理やり頼んだ班長が全員いますと答えたので、これでみんなそろったと、移動を開始し始めた時、遠くから走ってくる二人の人影が見えた。よくみるとうちのセーラーの制服ではないか。えーっと思ったら、全員いますと答えた先の班長の班の生徒だった。あやうく置き去りにするところであった。「さっき、みんないると答えたじゃないか」とその班長を問い詰めると、ちょっとぼんやりしたところのあるその生徒は口をつぐんで何も答えない。まあ無理やり頼んだことでもあり、結果的には間に合ったからいいかとそれ以上は何も言わなかったが、危ないところであった。

#修学旅行(2)

担任や学年主任として修学旅行に生徒を引率するとき、旅程や部屋割りや教員の仕事分担や緊急時の連絡先などのコピーを張り付け、1日ごとの行動の流れやその時々の出来事を記載するノートを毎回手元に用意して使っていた。そのノートを見れば、いろいろ思い出せるのだろうが、問題行動やそれについての経過や対処のメモなどといった生徒の実名の入った個人情報に関わる内容も含まれているために、退職する時にロッカーにしまってあった何冊ものノートをすべてシュレッダーにかけて処分してしまった。だから、断片的な記憶が、いつの学年のことだったか入り混じったまま頭の片隅に残っているだけである。

これは静修ではないが、大学を卒業して最初に勤務したのは千葉の田舎の相当やんちゃな高校で、暴走族や校内暴力が世相をにぎわせていた時期に重なる。ぼくはその中でも一番やんちゃな2クラスの副担任として関西方面への修学旅行の引率をしたことがある。裏に派手な刺繍をほどこした長い学ランで、眉を剃り上げたり、髪をリーゼントふうにしたり、わざとガニ股で肩をゆすって歩き、すれ違う他校の修学旅行生にガンを飛ばしまくって挑発したりしていた。1人1人だとそんな悪い奴等ではなかったが集団になると、時に手がつけられなかった。そんな時代だった。担任はかばんにバリカンを携行していた。問題を起こした生徒は夜、旅館の一室に連れて行って正座させ、バリカンで丸刈りにするのである。その丸刈り頭も、その生徒にとってはワルの証のようなもので、「やられちまったぜい」と勲章のように誇っていたような気もする。

京都の新京極近くの旅館に着いた時、まずぼくの最初の仕事は菓子折りを持って近くの交番に挨拶に行くことだった。前年だかに旅館の二階の窓から、下を通る通行人に水をぶちまけ、地元のワルを巻き込んだ騒動があったとかで、そのわびと今年も何かあったらよろしくと予防的に頭を下げに行く役回りだった。今でも、あのころ流行っていた矢沢永吉や山口百恵の曲が車のラジオから流れてくるたびにその頃が思い出されるのである。彼らも、今は地元の農家のいいおやじになって地道な生活をしていることであろう。

静修で、最初に担任として修学旅行に引率した時のこと。当時、生徒の部屋は旅館の大部屋であった。夜、部屋を見回りに行った時、暗くして寝静まっているふうを装い、突然、みんなで蒲団を持って襲って来たのである。何重にも蒲団をかぶせられ、その上から何人ものしかかってきて、布団蒸しにされたのであった。生徒のおふざけであったのだが、まだ若くて学生気分も抜けていなかったぼくは面白半分に一緒になって騒いだのだった。その後で谷浦先生に呼ばれ、きついお叱りを受けたのであった。(・・・続く

#修学旅行(1)

修学旅行で自分がどこの土地を訪れたか、何泊の旅程であったか、どういう交通機関を使ったか、東京ディズニーランドであったか、大阪のUSJであったか等々によって、およそどの時代の同窓生であるかは見当がつくと思う。

静修の第1回目は開校の翌年の1923(大12)年に室蘭・登別方面への1泊2日の旅程で実施されたそうである。津軽海峡を越えたのは1935(昭10)年からで、松島・東京・横浜・江の島・日光方面で、8泊9日であった。戦中には「聖地参拝旅行」として桃山御陵・樫原神宮・伊勢神宮の参拝を中心に関東・関西方面に9泊10日で行われた記録がある。

戦後の修学旅行の再開は1948(昭23)年に洞爺・登別・函館方面への3泊4日で、翌年は小樽~函館間を船で移動するというようなこともあったようである。1950(昭25)年には11泊12日という長旅になり、東京・大阪・宝塚・奈良・樫原・鎌倉・東京・日光・松島・仙台と欲張りな旅になっている。

1969(昭44)年からは飛行機利用が始まり、その移動時間の短縮にともなって旅程も7泊8日に短縮されている。1971(昭46)年からは、奈良と京都で班ごとの自主見学が導入された。1996(平8)年からは新たに広島が旅程に組まれるようになった。しばらく広島・奈良・京都・東京というコースが続いたが、ある時期(それがいつからなのか、今、資料が手元にないので分からない)から東京が外され、生徒が楽しみにしていた東京ディズニーランドの代わりに大阪のUSJが日程に組まれるようになった。旅程も5泊6日に短縮されたのではなかったかと思う。1992(平4)年の国際科開設に伴い、海外修学旅行も実施されるようになる。今、どのような旅程、コースになっているのかは知らない。今はどこの学校も修学旅行の日程は短くなっているようである。

今、ぼくは都合で千歳や羽田の空港をよく利用するが、しばしば、中学生や高校生の修学旅行の一団と遭遇する。わいわいやっている生徒たちにまじった引率の先生たちの緊張したり、疲れ切ったという表情を見る度に昔を思い出し、思わず先生たちに「ご苦労さんです。がんばってください」と声をかけたくなってしまうのである。

この春先にJR琴似駅前で西区のどこかの中学校が修学旅行の解散式をやっているのに遭遇した。旅の余韻ではしゃいでいる生徒たちのかたわらに引率の先生たちの一団があった。その、無事に引率を終えてたどりつくことができたという安堵感と、引率の緊張からの解放感がその笑顔に滲んでいた。「その気持ち、とってもよくわかります」と共感しながら眺めたことであった。(・・・続く)

#部活(5)

写真部の歴代の生徒のコンクール入賞作品を中心にして学校で『早春賦』という写真集を出した時、その編集を手伝ったことがある。その縁からか、城生先生の後を受けて写真部の顧問を仰せつかった。そのころはちょうどスキー部の入部希望者もいなくなり、スキー部は休部状態だった。写真部と言ってもただ写真を撮って終わりではない。暗闇の中でのフィルム巻から始まって、撮影、暗室で、撮った写真のネガを現像し、水洗し、それを乾かし(乾くまで次の日までネガを紐に洗濯ばさみで吊るしっぱなしにする)、プリントするコマを選び、引き伸ばし機でトリミングを工夫しながら印画紙に焼き込み(これも、焼き込みの秒数や覆い焼などの繊細なテクニックを要する、城生先生命名のタモリという手製の器具を使って覆い焼すると写真の印象がガラッと変わっていくのが面白かった)、現像液につけ(これも時間の加減がむつかしい)、定着液に移し、水洗し、乾かすという面倒な過程を踏むことになる。一連の作業では相当の時間を要する。顧問を引き継ぐにあたって、そういう暗室作業を城生先生から教わった。だが、手順を教わったからといってすぐにそれが出来るわけでは全くない。経験を積んで、カンを養うしかない。

城生先生は会議などによく遅れてくるというので、よく顰蹙を買っておられたが、顧問を引き継いで、その理由がよくわかった。生徒と一緒に暗室作業を一旦始めると、一定の手順が終わるまでは中断できないのである。

その時の生徒のキャラにもよるが、大会引率はおおむね楽しかった。網走の大会では、朝早くから生徒たちと一緒に魚釣りを楽しんだ。山形での全国大会はものすごく暑かった記憶がある。徳島での全国大会は前日の宿が取れず、大阪のビジネスホテルに泊まった。フロントで、セーラー服の生徒(その時引率したのは生徒一人であった)と中年のぼくという二人の組み合わせを怪しまれたのであった。フロントが気をきかせて、泊まる階を大きく離したのであった。徳島ではお遍路さんの泊まる寺の宿坊が宿だった。ぼくは他校の写真部顧問の先生たちと大部屋で同室であったが、そこで交わされる顧問の先生たちの写真についての専門的な会話についていけなかった。

その時も、自分が写真を好きにならんとやっていけないだろうが、と思い、写真の撮り方や、暗室作業の本を買って勉強したり、自分の撮った写真を新聞の写真欄のコーナーに応募してモチベーションを高めようとしたのであった。今ごろになって、もっと早く本気になればよかったと後悔するのである。

その後、退職するまで写真部顧問であったが、ぼくの代では全国に行けるような生徒の作品は生み出せなかった。たくさんの全国レベルのコンテストで入賞者を輩出した城生先生の凄さを思うのである。フィルムカメラによるモノクロ写真の暗室作業が面白いとやっと感じ始めたころにはフィルムカメラにデジタルカメラが取って代わろうとしていた。暗室作業から、パソコン作業へ。モノクロのフィルムも印画紙もだんだん手に入りづらくなりつつあった。暗室に立ちこめていた現像液や定着液の酸っぱい匂いが懐かしい。

#部活(4)

同じ冬の3月下旬くらいであった。再び、国際スキー場で大会があった。その時、競技が始まる前に、中学生の部門で出場する女子生徒とその父親がぼくの所に挨拶にやって来た。4月から静修高校に入学してスキー部に入る予定であるのでよろしくお願いするというのである。その生徒はアルペンのレーシングチームに所属しており、その兄も全国的な実績のある有名なアルペン選手であった。うわー、と思ったのである。そして大会である。ぼくは前と同じく、生徒のウェアを抱えて長靴で斜面をとことこ降りていくしかなかった。その時、その父親の当惑したような、落胆したような表情が忘れられない。その生徒はあと一息で全国に行けなかったが、違う学校のスキー部だったらと、本当に申し訳なく思う。

その次の冬休み、前の顧問がやっていたのと同じように、合宿練習してからそのまま大会に入るよう生徒に要求された。嫌だとは言えないので了解した。富良野スキー場で1週間ぐらい練習合宿をして、そのまま移動して3日間くらいの日程で名寄のピヤシリでの大会に参加した。正味10日間ぐらいずっと山に缶詰で凍えた。それもつらかったが、大会前夜に、出場する3年生の生徒がワックスはどれを塗ればいいのか指示しろというのである。雪温を予測して、それにふさわしいワックスを塗るのである。ぼくにわかるわけがないので、他の学校のスキー部の先生に聞きに行って、それを教えたのであったが、さも馬鹿にしたような態度をとられて「くそったれ」と思ったのである。増長した生徒は、大会が終わって帰る段になって「帰りたくない」とわけのわからぬ駄々をこねはじめたのである。勝手にしろ、と思ったが宿泊先のおばさんがとりなしてくれて、やっと帰路につけたのであった。

さすがに、これではつらすぎると、ぼくはばんけいスキー場のスキー教室に通ったのである。多少は滑れるようになったが、競技スキーを指導できるようなレベルとは程遠い。

冬場の生徒の練習場所は藻岩スキー場である。放課後になると毎日、ぼくの車に生徒を乗せ、車の屋根のキャリアにスキーを積んで運ぶのである。生徒を降ろすと、学校の会議などがあるので、すぐにUターンして学校に戻り、会議に出て、7時ぐらいまでに再びスキー場に戻り、生徒を拾って帰校するのである。全くのアッシー君である。

そんなこんだで、3ヶ月の約束が、10年近くスキー部顧問を務めるはめになったのであった。3ヶ月だけだからと約束したはずのその先生は、その後、全く知らん顔だった。(恨みがましいことを書いてしまったが、これですっとした。)