いきいき卒業生 星澤雅也さん

静修の友№45 (2015)「いきいき卒業生」より

明るく楽しげに話す姿がとても魅力的な星澤さん。お母様は料理研究家の星澤幸子先生です。現在星澤クッキングスタジオのプロジェクトチーフとして多忙な日々をお過ごしの星澤さんに、やんちゃだったと評判の高校時代、そして将来についてを熱く語って頂きました。

2003年卒

2003年 辻調理専門学校入学

2004年 同専門学校卒業、同年

日本料理明日香、泊船にてホール、調理補助として勤務

2006年 調理師免許取得

同年 西ドイツ・ケルン市

日本料理リストランテ金太郎就職

2008年 帰国  星澤クッキングスタジオ就職

2014年 蕎麦打ち初段取得

登山(冬山も)、マラソンやウォーキングラリーも行うなど、プライベートはアウトドア派

 

○楽しかった高校生活

自他共に認める目立ちたがりやで、学祭でダンスをしたり、実習中に女子と制服を交換したり、悪ふざけは沢山しましたね。女子ばかりでモテモテになる予定だったんですが、そうでもなかったなーと、彼女が出来て周りが困るくらいの熱々だったせいなんですけどね。クラスに男子は7人だけで結束力が生まれました。今でも仲良しです。後、苦手だったのが「藤野先生」。厳しく指導されて、正直「嫌だな~」と思ってましたね。それが卒業して仲良し7人で集まった時に偶然再会して、でもそこで色々と話をしていく内に先生の違う一面が見えたりして、今でも良いお付き合いが続いてます。面白いですよね。帰宅部で放課後も元気に活動してました。高校時代は本当に楽しかったなーと今でも思いますね。

○料理の道へ

子供の頃から料理がすぐ側にあって、料理の道に進むことに迷いはありませんでした。どこの学校にするかは色々考えましたが、東京への好奇心もあって決めました。卒業後2年間は都内でその後2年契約でドイツに行きました。その2年も終り、「さて」となった時母の希望もあり、北海道に戻って星澤クッキングスタジオに就職しました。

○母として先生として

母のことは先生と呼んでいます。最初は使い分けていたんですが、職場でお母さんと呼んだことがあって、もう恥ずかしくてそれからは先生です。学生の時の方が普通に仲良しでしたね。今は仕事の関係で意見の違いが出たりして、前は何も気にしないで甘えていられたのかなと思います。一緒に仕事をしてきて思うことは、先生が歩んで来た道は決して間違っていない、そして北海道の食のより良い未来を願って努力してきたことを、自分も続けていかなければと思っています。

○今後の抱負

北海道の家庭料理の中の道産食材の普及率を上げて行きたいと思っています。

北海道産は今や立派なブランドです。安心・安全な食材、その良さと魅力をまだまだ沢山の方達にお伝えしたい。道産の食材が家庭料理の中に沢山使われるようにして行きたい、それが僕の願いであり目標です。その為に企業とのコラボ商品やイベントなども色々と行っています。札幌に帰ってきて7年教えて貰うことばかりだった自分が、一歩進んで人に教える側になることも増えて来ました。北海道に根を下ろして仕事をして行こうと思ってもいます。まだ道半ばですが、今後も北海道の食の発展に力を尽くして行きたいです

最終回

これまで、100回分ぐらい書いたでしょうか。もうだいぶん前にネタ切れし、後は無理無理ひねり出すような感じで理屈っぽくなり面白くもなんともなくなってきました。そろそろ潮時だなと思い、これをもって最終回とさせていただきます。ご笑読いただきありがとうございました。また、いろんなコメントをいただいた同窓生の皆様に感謝申し上げます。

また、「静修荒野の用心棒」や「ブラックアウトの夜」に出演いただいた先生方には、勝手なキャラを付与させていただき、本来のイメージを相当棄損してしまいました、なにとぞ寛容な心でお許しください。

書いている間、脳は静修高校のあちこちの場所や人や時間の中をネタ探しに彷徨っていたので、これで二度目の退職をする気分です。

同窓生の皆様のご健康とますますのご活躍を祈念いたします。ありがとうございました。

#量質転化の法則

授業や集会で話した別なネタを思い出しました。哲学で弁証法というのがあります。その一つの考え方に「量質転化の法則」というのがあります。ぼくは、これを三浦つとむという人の『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)で読み、とても納得できる好きな考え方で自己流にくだいてよく生徒に話したのでした。あるクラスの生徒たちに卒業にあたって書いた文章がありますので、一部を転載してみます。

<何であれ一定の「量」が蓄積されれば、それは「質」的な飛躍をもたらすという考え方です。ぼくはこれを「ワープ」と呼んでいます。スポーツの練習で考えてみてださい。一つの技術の練習を繰り返していると次第に上達してきます。しかし、ある段階に達すると壁のようなものができて、やってもやってもその壁を越えて次のレベルにたどりつけない時期が必ずやってきます。ここで嫌気がさしてやめてしまうと、絶対にその壁の向こうの世界は見えません。しかし、不思議なことに、それでも愚直に練習と工夫を重ねているとあるとき突然、ひらめきというか、悟りというか、ぱっと世界が開けたように、出来なかったことがあたりまえに出来てしまうことがあります。これをぼくは「ワープ」と呼んでいますが、この体験の繰り返しが技術の上達だと思います。でも、これは特別なことではなく、成長してきた過程で君たちも何度もこの「ワープ」によって脱皮を続けてきたのだろうと思います。コツは、壁が見えたとき、自分の限界だと考えて降りてしまわないことです。「継続は力なり」という言葉は信じていい。>

これはスポーツに限りません、芸術の鑑賞眼や、様々な職業的なプロの知識や職人の技術などなど、ある一定の体験的な量が蓄積されれば、常人からすれば信じられない質が生まれるのだと思います。才能や能力という問題はあるかもしれませんが、それでも、それぞれのレベルにおいて、量は質に転化するのだということは信じてよいのだと思います。教育の一つの役割は、その「ワープ」の実感を個々の生徒に持たせることでもあると思います。ちょっとニュアンスは違いますが、「達成感」と置き直してもいいかもしれません。その体験は、その後の人生において効いてくるのだと信じるのです。

きれいごとかもしれませんが、ぼくは体験的に「量質転化の法則」は信じていいのだと思っています。

#y=ax

一時、ベストセラーになった養老孟司の『バカの壁』(新潮選書)の中に「脳の中の係数」という章があり、数学音痴のぼくにもシンプルで分かりやすい説明があった。「入力」(「情報が脳に入ってくること」)をxとし、「出力」(その情報に対しての反応)をyとするとき、「この入力をx、出力をyとします。すると、y=axという一次方程式のモデルが考えられます。何らかの入力情報xに、脳の中でaという係数をかけて出てきた結果、反応がyというモデルです」として、次のように言う。

<このaという係数は何かというと、これはいわば「現実の重み」とでも呼べばよいのでしょうか。人によって、またその入力によって非常に違っている。通常は、何か入力xがあれば、当然、人間は何らかの反応をする。つまり、yが存在するのだから、aもゼロではない、ということになります。

ところが、非常に特殊なケースとしてa=ゼロということがあります。この場合は、入力は何を入れても出力はない。出力がないということは、行動に影響しないということです>

として学生に「出産ビデオ」を見せた時に男子学生が何の感興ももたらさなかった、すなわち「係数aがゼロ(または限りなくゼロに近い値)」だったという体験例を引く。なるほどと思ったが、係数a(「現実の重み」)、ぼくはこれを興味・関心と置き直して読みましたが、それがゼロであれば、いくらxという情報をたくさん与えても、その情報に対する反応のyはゼロにしかならないということであろうと理解したのでした。

これを、現実の目の前の生徒に転用して考えた時、授業でどんなに大量の情報(教科の学習内容)を与えたとしても、生徒の係数a(興味・関心)がゼロだったら、出力としてのyは限りなくゼロに近いものになってしまうということになります。

これについては、思い当たる所がある。静修に来る前にぼくは千葉の公立高校に勤めていたが、100数校の県内の偏差値ランクで下から2番目という学校で、当時は全国的に校内暴力とかで学校も荒れまくっていたから、暴走族とかシンナーとか大変であった。そんなふうだから、授業もでたらめで、国語の試験をしても平均点が20点ぐらいで、これ以上やさしい問題は作れんぞという感じだった。いいやつもおもしろいやつもいっぱいいたが、退学数も非常に多かった。だが、彼らが愛読していたバイク雑誌については、専門用語だらけで、ぼくなど読んでもまったくちんぷんかんぷんだったが、それを読みこなしているのに驚いた。すなわち、バイクについては係数aが非常に高かったのである。農家の子弟が多かったが、たぶんその後、生活のために今度は農業関連の知識についての係数aを高めて、今では農家のいいおやじになっているであろうと想像する。逆に言えば、係数aさえ高ければ逞しく知識を吸収して生きていくことが出来るのではないかと想像するのである。

と考えてくると、教育力を高めるということは、情報量としてのxの教え方の技術以上に、生徒の興味・関心としての係数a(それは個々の生徒一人一人によって異なるであろうが)をどう高めていくかの工夫にかかっているようにも思えるのである。一時、分かる授業、面白い授業というようなテーマで学内の研究テーマが設定されていたことがあるが、その肝は授業で冗談を言って面白く授業展開するといったレベルの話ではなく、個々の生徒の係数aをどう喚起し、向上させるかにあったように今頃になって思うのである(それは、子育てについても同じことが言えると思うが)。言い換えれば、仮に試験とか、受験とかといった外在的な係数aで維持する制度的な縛りを解除した時に、それでも学びが成立する力量の蓄積が学校や教員個々にあるか否かということでもあるかもしれない。

その教育的な力量が試されることのない、無責任な立場になって思いつくたわごとではある。

 

#立春の卵

「立春の卵」という言葉をご存じでしょうか。今年の立春は2月4日のようですが、暦の上での立春の日には、通常は立たないニワトリの卵を立てることが出来るという古くからの俗信のような言い伝えがあります。立春の日に、本当に立つかどうか試してみてください。

この「立春の卵」の話は、年度のスタート期のホームルームや学年集会でしばしば話のネタとして使ったのでした。その内容を思い出しながら、書いてみます。

「コロンブスの卵」という話がありますが、あれはゆで卵の底にコチンとひびを入れて立てるというインチキですが、「立春の卵」にしろ「コロンブスの卵」にしろ、その話の前提には「卵は立たないものだ」という常識があります。でも、立春という特別な日でなくても、インチキしなくても、集中力と根気さえあればだれでも卵を立てることはできるのです。では、なぜ「卵は立たない」という常識が出来上がったのでしょうか。いくつか理由を考えることができます。

・卵を立てることが出来たとしても何の意味もない。だからだれも真面目にチャレンジしなかった。

・試してみた人もいるかもしれないが、内心、どうせ立つはずがないと思っているから、すぐにあきらめてやめてしまった。

いずれにしろ、強固な常識が壁になっているのです。これは、仮説実験授業という教育方法の提唱者である板倉聖宣という教育学者の『科学的とはどういうことか』(仮説社)というとても知的刺激に満ちた本で知りました。「立春の卵」については雪の結晶の研究から「雪は天からの手紙である」という有名な言葉を遺した中谷宇吉郎にも同名のエッセイがありますので(『中谷宇吉郎随筆集』(岩波文庫))、興味があれば読んでみてください。

ぼくは、それらを読んで、卵立てにチャレンジしたのでした。30分以上かかりましたが、実際に卵を立てることが出来ました。その時には、本当に感動しました。コツをつかむともう少し短時間で出来るようになります。理屈的には、卵の殻の表面にはたくさんのプチプチがあります。そのバランスの安定する3点のプチプチの配置をみつけると立ちます。新鮮な卵ほど、プチプチも磨滅していないので、立ちやすいようです。親指、人差し指、中指ないし薬指の3本の指でそっと持って、安定点を探るのです。粘れば、先のとんがった方を下にしても立たせることができるようです。

というような内容をコンパクトに要約して、本題に入るわけです。常識にとらわれてはいけないとか、意味ばかり求めてはいけない、即効的に結果の出る意味もあれば、今は無意味に見えても人生の終わりごろになって滲み出すような奥深い意味もあるわけだから、例えば今のこの教科の勉強には何の意味もないと小賢しい判断で努力を放棄してしまうのはとてつもない損失になるのかもしれない、とか、「どうせ卵は立たない」=「どうせ自分なんかに出来っこない」と自分で自分の能力、可能性を限定しては駄目です、そういう考え方の癖をつけてしまうと自分で作った自分の限界を超えることは絶対にできません。「もしかしたら卵は立つかもしれない=自分は出来るかもしれない」と自分自身を信じること、なかなか思うようにいかなくても愚直にチャレンジし続けること、それが大事です、というような話に持っていったわけです。

時間があれば、冷蔵庫から卵を引っ張り出して、無我の境地で、卵立てにチャレンジしてみてください。

#入学式・卒業式

これを読んでいる方が静修高校に入学されたのは、何年前になるのだろうか。入学式のことをご記憶だろうか。教員の目からは、女子高のときも共学後も、女子生徒の新入生の真新しいセーラー服の親子線の白さが、その緊張した初々しい表情と共に強い印象として残っている。各教室前の廊下で整列し、階段を降りて、体育館後ろ(購買側)から入場してくるのである。

そして、3年を経て、卒業式をむかえることになる。今度は、体育館のステージの左右から登場し、式が終わると、入学式の時に入場して来たときの体育館後ろの出入り口から、在校生と教員の拍手に送られて退場していくのである。その意味では、体育館後ろの出入り口は、高校生活の入り口であり出口なのであって、その入り口と出口の奥には高校3年間の時間が詰まっている、という意味で象徴的な通路であると見なすことができる。

静修高校の卒業式のスタイルは他校と比較してもユニークであると思う。中学校の卒業式を思い出して比較してみてほしい。一般的にはステージ上に演台があり、そこに日の丸を背にして、校長がおり、下から登ってくる生徒に校長が卒業証書を手渡す。高低差からいって、生徒に対して高みから、文字通り卒業証書を「授与」する構図である。

静修の卒業式のスタイルを誰が考え出したか、いつから始まったのか知らないが(戦後であることは間違いないだろう)、ぼくはとても気に入っている。

まず、卒業生がステージの高みから登場して、左右に花が飾られ、赤い毛氈の敷かれた階段を降りて来るというスタイルは、主役は卒業生であるということを際立たせる。そして、来賓も、校長・教頭・卒業担任・一般教員も、父母も、在校生も、卒業生も同一平面上に並ぶ形になる。そこには高低差をつけずに、対等に同格で卒業を祝すという思想がうかがえる。これは誇っていいことだと思う。

卒業式シーズンにはテレビのニュースなどで、南高などの弾けた卒業式の映像が流れたりする。それはそれでいいのだが、静修の厳粛に進行する式もいい。体育館後ろの出口から退場するやいなや、泣いたり、笑ったりの弾けた騒ぎの声が体育館の中まで響いて聞こえたりする。ぼくは、そのメリハリも大好きだ。

その後、各教室でお別れの最後のホームルームになる。ぼくはカメラを持って教室を回り、その様子をよく写真に撮って歩いたが、クラスによってその雰囲気は様々である。担任やそのクラスのメンバーの個性や関係が生み出す空気なのであろう。

それが終わると生徒は一人一人の個に戻って、ばらばらと帰っていくのである。そして、だれもいなくなった教室に戻った担任は、そこで万感の思いで、感慨にふけるのである。その思いの中には、これでやっとせいせいしたという思いも含まれるのかもしれないが・・・。

#卒業式の歌

静修の卒業式で歌われるのは校歌、静修賛歌、仰げば尊し、蛍の光ではなかったかと記憶する。今も変わらない伝統的な式次第なのであろうと想像する。

ところで、「唱歌」と「童謡」という言葉があるが、その違いをご存じだろうか。最近まで、そんなことを意識したことはなかったが、ふと思いついて井手口彰典という人の『童謡の百年』(筑摩選書)を読んでいて、その違いを知った。

明治政府は1872(明治5)年に我が国で最初の近代的な学校制度である「学制」を発布し、その中で小学校に割り振られた授業科目の一つが「唱歌」であったという。そこで用意された歌曲の総称としても「唱歌」の語は使われたという。その際、曲の多くが外国の旋律を借用したものだったそうである。唱歌の特徴の一つは「国家形成のための手段であった」と指摘している。江戸時代までは多くの人々の意識にとって「国」とは相模国や武蔵国というような個別な藩であったが、「日本」を一つの単位として諸外国と渡り合う必要上、「日本人としての共通アイデンティティを植え付けるための重要な手段の一つとして唱歌を活用しようとした」ということである。「仰げば尊し」も「蛍の光」も唱歌である。そういう視点で歌詞を読み返すとなるほどと思う。

その唱歌に対する批判として大正期児童文学をリードした『赤い鳥』という誌を主宰した鈴木三重吉は「唱歌は芸術的に「低級」で「愚なるもの」だから、それに代わる「真価ある純麗な」童謡を子供たちに提供しよう」として大正期を中心に生み出されたのが「童謡」であるという。北原白秋の「故郷」三木露風の「赤蜻蛉」などがそれである。それに対しても、その後、今度は「童心主義」という批判がおこるのであるが。

さて、「仰げば尊し」であるが、この歌はスコットランド民謡の旋律を借用して、それに日本語歌詞をつけて明治のころから多くの学校の卒業式で歌い続けられた定番曲である。文語体の歌詞だから、今の生徒には「おもえばいととし」とか「いまこそわかれめ」も耳で聞いただけでは意味不明であろう。「身を立て 名をあげ やよはげめよ」にも明治社会の価値観がうかがえる。伝統的な卒業式の情感を醸す歌として卒業式参列者のノスタルジックな情趣を演出するという意味ではありかなとは思う。ただ、ぼくはこの歌には抵抗感があった。「仰げば尊し我が師の恩」という歌詞の歌を、教師主導で、生徒に歌わせるというのがなんだか嫌だった。我が尊き教師の恩を仰ぎ見よと言っているようで、おこがましい歌詞だなあと思っていたのである。

「蛍の光」というとぼくは今ではパチンコ屋やスーパーで、もう店じまいですから早く帰る用意をして下さいと促され、煽られる曲としてのイメージも強いが、これももとはスコットランド民謡であるという。その原曲歌詞の訳文を読むと、人生の時の流れの哀感をこめて乾杯するような抒情的で魅力的な歌詞であり、英語圏ではカウントダウン後の新年ソングになっているそうである。

この歌も日本語歌詞は文語体であるので、意味がとりづらい。「いつしかとしもすぎのとを」、「かたみにおもうちよろずの」「さきくとばかりうとうなり」など、耳で聞いても意味不明であろう。卒業式では、内容的に無難なその1,2番が歌われるが、3、4番はかなり前時代的な日本語歌詞が付されている。3番「ひとつに尽くせ国のため」(ひたすら力を尽くせ 国のため)、4番「千島のおくも沖縄も 八州(日本のこと)の守りなり(守りの要である) 至らんくにに(統治の及ばない国には) いさおしく(勇敢に) つとめよ(向かえ) わがせ つつがなく(尽力せよ 我が兄弟 無事であれ)」と歌われた歴史を持っている。

まあ、生徒も教師もそういう歌の歌詞が担った歴史というようなことを意識して歌っているわけではなかろうから、目くじら立てることもあるまいが、そろそろ今の時代の生徒の感性に直接響く歌に変えるというようなことをこの先検討してもいいのかもしれないと無責任な立場から思うのである。全国の学校で今歌われているという新しい卒業ソングの中にも、今の静修の卒業式の空気感に合うものはありそうに思えるのである。その歌が毎年変わってもいいではないかとも思う。卒業式の主役は卒業していく生徒であるのだから。

#10年後の自分への手紙

担任していたクラスで、卒業間近のホームルームの時間に「10年後の自分あての手紙」を書かせたことがある。「10年も経てばほとんど細かな記憶は失われてしまうものだ。10年後に、高校時代の今を思い出すきっかけになることや、その頃、自分が考えていたことを思い出すきっかけになることなら何でもいい。ぼくは読んだりしないから、好きなことを書いたらよい」といって紙を配ったのである。「今日の日付だけは書いておいて、あとは何でもいい、自由だ。今座っている机の配置や、隣に座っている人の名前、今の自分の体重、今つきあっている好きな男の子の名前、今日のニュースの出来事、今はまっている歌やテレビドラマ、教科の時間割、10年後の自分を想定したメッセージ、悩み事、必要なら通知表をコピーしてあげるから同封してもいい、なんでもありだ」と伝えて好きに書いてもらったのである。最後に封筒を配り、一人一人に自分の住所の宛先と自分の名前を書いてもらい、クラスの名箋の残りを一枚ずつ、保管していた個人の証明用の顔写真を配って入れさせ、糊を持ってきて自分で封印させた(担任していたクラスで何度か同様のことをやったので、その複合記憶かもしれないので細部には記憶違いもあるかも知れないが)、その上から事務室で借りて来た封緘の印鑑を押したのである。こっそり開けてみるようなことはしないよ、という秘密保持の約束保証のようなものである。10年経ったら送るからなと約束して、彼女たちは卒業していった。

定年退職の時期を迎え、学校にある私物の身辺整理をしていた時のことである。自分のロッカーの奥から古びた紙袋が出て来た。何だったんだっけ、と開けてびっくりした。例の「10年後の自分への手紙」の束だった。すっかりその存在を忘れていたのである。すでに10年どころか20年は経っていた。姓や住所が変わっている人も多いだろうから、どれだけ届くか分からなかったが、多少変色した封筒の裏の差出人の部分に学校の住所の印鑑を押し、その横にぼくの名前のゴム印を推し、切手を貼って投函したのである。事務には、あて先不明で返送されてきた封筒はそのままシュレッダーにかけてくださいとお願いして退職した。その手紙にはその生徒の私的な個人情報や秘密も記されている可能性があるから、他人に見られては困るのである。何通が無事本人に届いたかは分からない。

2,3年前に参加した同期会がその学年であった。その内の数人から届いたと聞いた。ある一人は、実家の親から、静修高校からお前あてに手紙が届いているよという連絡があり、何だろうと実家に行って開封して思い出した。その時、「お前はこんなに遅刻していたのか」と今頃になって親に怒られたと笑って話してくれた。たぶん通知表のコピーを同封して、その出欠欄を見られたのであろうと想像したのであった。20年前に抱いていた自己の未来イメージと実際の現実はどのように重なり、あるいは異なっていたであろうか。

話はそれて、その「同期会」という呼び方であるが、漠然と「同窓会」とはどう違うのだろうと思っていた。「同期会」は同じ卒業年度の卒業生を単位とした言い方で、「同窓会」は同じクラスであった生徒を単位とする言い方であるという理解でいいのであろうか。

#あのときかもしれない

前回、授業でプリント配布した文章について書きましたが、もう一つ頻繁に引用したり、プリントして配ったものがあります。長田弘という大好きな詩人の『深呼吸の必要』(最近、文庫化されハルキ文庫の一冊として再刊行されました)です。詩というと馴染みにくい印象を持っておられる方も多いと思いますが、わかりやすい言葉を使って書かれていて親しみやすい詩です。

「きみはいつおとなになったんだろう。きみはいまはおとなで、子どもじゃない。子どもじゃないけれども、きみだって、もとは一人の子どもだったのだ。」という言葉で始まり、「いつおとなになったのか」という子どもから大人にかわるその切れ目を探す9編からなる「あのときかもしれない」という連作散文詩です。

ぼくは、息子の通っていた小学校のサッカー少年団の押しかけコーチをしていた時期がありますが、その子どもたちの練習や試合につきあうのが楽しくて仕方ありませんでした。グランドを駆け回る、そのきらきらした子どもたちの目を見ながら、よくこの詩を思い浮かべたのでした。

「子どものきみは、道をただまっすぐに歩いたことなどなかった。右足をまえにだす。次に、左足をまえにだす。歩くってことは、その繰りかえしだけじゃないんだ。第一それじゃ、ちっともおもしろくも何ともない。きみはそうおもっていた。こんどはこの道をこう歩いてやろう。どんなゲームより、どんな勉強より、それをかんがえるほうが、きみにはずっとおもしろかったのだ。

いま街を歩いているおとなのきみは、どうだろう。歩くことが、いまもきみにはたのしいだろうか。街のショーウインドウに、できるだけすくなく歩こうとして、急ぎ足に、人混みのなかをうつむいて歩いてゆく、一人の男のすがたがうつる。その男が、子どものころあんなにも歩くことの好きだったきみだなんて、きみだって信じられない。

歩くことのたのしさを、きみが自分に失くしてしまったとき、そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人のこどもじゃなくて、一人のおとなになっていたんだ。歩くということが、きみにとって、ここからそこにゆくという、ただそれだけのことにすぎなくなってしまったとき。」

成熟の裏側にはいつも喪失が貼り付いているのだという感覚でしょうか。ぼくは、先のサッカー少年団の子どもたちが、小学校を卒業するのに伴う卒団式で、今はよく理解できなくてもいいと思いながら、プリントして配ったのでした。いつか大人になった時、しょぼくれて「うつむいて歩いている」自分の姿を見るようなことがあったら、あのきらきらしていた少年時代を思い出して、もう一度元気を取り戻してもらいたいと思ったのでありました。

その子どもたちも今はもう結婚したり子どもがいたりする年齢になりました。たまに会ったりすることがありますが、「せのおのおじさん」と親しく声をかけてくれるのがうれしいのであります。

ついでに似たようなテーマの中桐雅夫という詩人の「会社の人事」という詩(「会社の人事」(晶文社)の一部を引用してみます。

「日本中、会社ばかりだから、/飲み屋の話も人事のことばかり。/やがて別れてみんな一人になる、/早春の夜風がみんなの頬をなでていく、酔いがさめてきて寂しくなる、/煙草の空き箱や小石をけとばしてみる。/子供のころには見る夢があったのに/会社にはいるまでは小さな理想もあったのに。」

乳幼児であれ、小学生であれ、中高生であれ、そのそれぞれの時間は一回きりの時間ですから、特にその成長期の時間は早く流れて二度とは戻らない時間です。毎日が同じことの繰り返しであるような停滞した日常の時間にはまってしまった大人には、そうした成長期の現在を生きる子供たちの姿は一種の喪失感を伴って、現在との対比でいっそう輝いてまぶしく見えるのかもしれません。

みなさんは、自分が「一人のこどもじゃなくて、一人のおとなに」なってしまった境目はどこにあったのでしょう。長田はその詩の中で、父親の孤独に気がついた時とか、「こころが痛い」としか言えない痛みを初めて知ったときとか、いろんな境目を探ります。振り返ってみられたらいかがなものでしょう。意外と答えはむつかしいかもしれません。

この長田の詩を卒業式前の最後の授業で生徒に配ったこともありました。今年ももうすぐ卒業式シーズンです。

#少年の悲しみ

ぼくは国語の授業で、教科書とは関係なく、自分が面白いと思ったり、生徒に是非読んでもらいたいという文章をプリントしてたびたび配っていた。その一つにボブ・グリーンというアメリカのコラムニストの『アメリカン・ビート』(河出文庫)の中の「野球そして人生の真実」という文章がある。それを何度かプリントして配ったのであった。

9歳になるブレット少年は野球が大好きで、両親にリトル・リーグで野球をやらせてくれと頼んでいた。両親からやっと許可が出て、少年はうれしくてうれしくて、早くからユニフォームに着替え、誰よりも早く練習場所に行くようになる。ところが、「最初の何ゲームがすぎたあと、練習を終わって帰ってくる息子の様子がおかしいことに両親は気がついた。少年の心の秘密は詮索しないのがいちばんいいのだが、ふたりは放ってはおけなかった」。コーチはうまい選手を優先し、ブレットは1試合に最低の1イニングだけしか出してもらえないのであった。そのイニングが終わるとすぐにベンチに下げられる。自分がフル出場する時を待ち、期待に目を輝かせてベンチにいる少年の描写と、その少年の様子を遠くから見て、切なくて涙が出そうになっている両親の描写が胸を打つ。

「もうすぐ今年もシーズンが終わろうとしている。ブレットは、もう四時間前にユニフォームに着替えなくなっていた。時計を見ることはなくなった。まだ試合には出かけて行くが、幻想は抱かなくなった。家でも野球の話は、まったくしない。

ブレットの両親は、この経験のなかに教訓を見いだそうとしていた。毎年夏になると、アメリカ中の何千という町のたくさんの少年たちが同じようなことを経験する。息子にはいい経験になるだろう。息子は、人生や夢についてなにかを学びとるにちがいない。夢を信じすぎることが、どんなに危険なことかも思い知るだろう。(中略)

ある晩、ブレットは両親に、来年の夏は野球をやらないよ、とぽつんといった。その目は夏がはじまる前のように輝いてはいなかった。それが両親にとっては、いちばんつらかった。ブレットの目は、もう前のように輝いていなかった。」

プリントは配るだけで、余計な解説はしなかったが、たとえば部活でレギュラー選手と控えの選手では世界の見え方は違うのだと想像してもらいたいと思った。高校生ぐらいだとそんなことは慣れて当たり前のことなのかもしれないが、違う立場の人間の心を様々な場面にあてはめて想像する力が育って欲しいと思ったのである。前にコメント中に、ある競技で強豪の学校のチームを選ぶか、弱くてもそこで活躍できる学校のチームを選ぶかという「鶏口牛後」的な話がちらと出ていたが、100名以上をかかえているような高校野球や高校サッカーの学校の試合中継を見る度に、ベンチメンバーにも入れずに観覧席で応援する生徒の映像を見ていると(3年生が卒業すれば、今度はレギュラーになる生徒もその中にはいるだろうが)その気持ちを想像してしまうのである。試合に出て活躍するだけが部活の意味ではないという考え方はありうるが、正直なところ心の中には割り切れないものを抱えているのではないかと思う。そこをケアするのも指導者の大変な仕事なのだろうとは思う。

この「野球そして人生の真実」をプリント配布したもう一つの意図は、この少年や両親のせつなさ、つらさへの共感力を生徒には持ってもらいたいと思ったのであった。卒業していろんな体験をへて、そういう感性は鍛えられていくのであろうと思ったが、その感性的な成長のウオーミングアップという思いもあった。

ぼくは小さい子が泣く姿に弱い。先日札幌駅近くの交差点で信号待ちしていた時、小さな男の子が、「ごめんなさい、ごめんなさい」と、お母さんを見上げて泣き叫んでいるのに遭遇した。何があったのか、お母さんはひどく怒っていて、その子を無視している。「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながらすがりつく男の子の手を振り払って、信号が変わるや、男の子を置き去りにしてさっさと歩き出した。しつけということなのかもしれないが、ぼくは心配になって、泣きながら追いかける男の子に寄り添って歩いたのであった。一瞬、男の子に「どうしたの」と声を掛けようとしたときに、お母さんが立ち止まり、乱暴に男の子の手を掴んでひっぱっていった。余計なことと思いつつ、ちょっと心配になってすこしの間その後をついていったのである。後ろの雄太郎である。お母さんの腹立ちは続いているようであったが、まだ「ごめんなさい、ごめんなさい」と言い続けている男の子の手を掴んで並んで歩き出したのでほっとしたのであるが、その時、ぼくの心に唐突によくわからない悲しみの感情が噴き上げたのであった。そのときの「ごめんなさい、ごめんなさい」の声はまだ耳に残っている。人生の助走段階にあるちいさな子どもを必要以上に悲しませてはいけない。その時も、「野球そして人生の真実」の少年の姿がかぶさってきたのであった。