#ブラックアウトの夜(補・静修版百物語 1 )

コメントを読みながら、あれこれ考えました。

例えば、「半魚人の干物」について、後の話の展開予測を読みながら、それもありだなーと何度か思いました。鴨々川というアイディアがありましたが、静修の生徒による鴨々川清掃ボランティアの活動とからめても話が作れそうだし、ラストをアリにしましたが、カニのほうがイメージしやすかったかもしれないとも思いました。アリが対価を求めなかったことに、愛の無償性を読み取ったコメントがありました。それを意識して書いたのではなく、もう食うところがないだろうと適当に処理したのでありましたが、なるほどそういう読みも成り立つなあと思ったのでした。ハッピーエンドを期待した予測のアイディアも発展させられそうだなあと思ったのでした。半魚人が元恋人と再会出来たらよかったのですが。なぜ、半魚人が静修のプールに棲みついたのかという因果はあえて不条理なのだとしましたが、何かの因果を考え出すこともできそうです。

半魚人の干物がもう目がないのに涙を流せないだろうというツッコミもありました。確かにそうではありますが、物理的に流す涙だけではなく、心理的に流す涙というものはあると思うのであります。本当に悲しい時に、物理的に流す涙よりももっと感情的な深部で涙が流れるということはあるように思います。そういう経験のある方もいらっしゃるかもしれません。科学的ではない、文学的な発想ではありますが。

半魚人ないし人魚が静修のプールに棲みついたという設定を一つの話の「タネ」としたとして、たとえばそこから想像力によって無限のバリエーションが「芽」として生み出されて話が成長していく可能性はいくらでもあると思います。

ぼく一人でも「百物語」百話ぐらいならでっち上げられそうにも思いますが、どうしたって、発想がパターン化して、陳腐なものになってしまうだろうと思います。「新・静修百物語」というようなことを想像すると、同窓生の方々がオリジナルストーリーを考えてお話を組み立てられ、それぞれのアイディア作品を持ち寄れば、バラエティーに富んだ百話くらいはあっという間に達成できそうに思います。同窓会のホームページにそういう作品募集のコーナーを設けて、その作品を掲載し、出来栄えを競うという遊びもできそうです。それは妖怪でも幽霊でも化け物でも(その区別がよくわかりませんが)、都市伝説でも、超常現象でも、未確認飛行物体でも、未確認生物(たとえば、ツチノコみたいなやつが学校の敷地内にいるとか)でも、ちょっと不思議な現象を話に組み込んであればOKというようなことで。

妖怪と言えば、水木しげるの漫画は子どもの頃からよく読んでいました。水木の出身地である鳥取県の境港市にある水木しげるロードに行ったことがありますが、そこの土産物屋で「妖怪汁」というラベルの缶ジュースを売っていました。どんなジュースなのか、気持ち悪くて買いませんでしたが、「半魚人の泪汁」とか「半魚人のするめ」を商品開発し、静修の購買で販売したら、売れないかもしれないが、話題にはなるだろうなあ、などと馬鹿なことを考えるのであります。「校長愛用 悪霊退散幣」とか「巫女舞セット(ノンアルコール口噛み酒付き)」とか、「静修オリジナルゆるキャラ へとへとさん」とか「鯉(恋)の怨み晴らし桝」だとか「ミニひな人形 三人官女ダンサー・五人囃子ロッカー」とか「静修セーラー服着せ替え人形 スケ番・ミニスカ・ヤマンバ・ルーズ・埴輪」など荒唐無稽の学校名物を妄想してみるのであります。ただ、その前提には「静修百物語」がメジャーになることが前提でありますので、当然ながら、残念ながら、全く実現性はありません。それより、こんなの売り出したら、いったいどんな学校なのよと気味悪がられるでしょう。

#講演会や文化行事など

静修に勤め始めたころに驚いたことがいくつかある。60周年記念誌の編集作業をしていた時の資料に、毎年行われていた文化講演会の講師の名前があった。渡辺淳一、佐藤愛子、岡本太郎などが講師に呼ばれていたと知り、びっくりしたのである。その60周年の時にはその講演会の担当を任され、『いないいないばー』とか『龍の子太郎』、モモちゃんシリーズなどで知られる児童文学者の松谷みよ子が講師として候補にあがり、直接、電話して交渉したことがある。最初その電話は助手のような女性が受け、すぐに本人が出てこられて緊張した記憶がある。幸いにこころよく講師を承諾いただき、ほっとしたのを覚えている。当時の松谷作品のテーマが戦争だったこともあり、その事前指導にエネルギーを使った。当日は千歳空港まで迎えに行き、講演後、夜に会食していろいろ話した記憶がある。氏からはサイン入りの著書をいただいた。氏は民話の収集にも熱心で、その『現代民話考』全8巻(?)は静修図書館にあると思うが、その中の1巻に「学校の怪談」があったように思う。

以後も毎年、文化講演会は継続され、70周年の時の講師は思い出せないが、80周年の時の講師は椎名誠であった。身体が大きくてがっちりした、さすがに探検好きの作家だと思ったことである。その『岳物語』という作品は子育ての最中であった当時のぼくの愛読書であった。

毎年の講演会は全校生徒を聴衆としていたが、やがて特定の1学年を対象にするように変わったように記憶する。聴衆の人数が多ければ多い程、集中させるのが難しいという事情も働いていたのかもしれない。私語や居眠りといった講師に対して失礼なふるまいを注意するのに規模が大きいと手が回らないのである。先日、新聞に大学の先生が道内の地方の高校で講演した時のことを書いたコラム記事が載っていた。生徒の聴く態度の無礼さに怒り、それを注意しようともしない先生たちに対しても憤っていた。その気持ちはわかるが、一般の講演会のように、その演題や講師への関心をもって集まった聴衆で構成されるのとは違い、みんなが興味を持っているわけではない多人数の生徒に半強制的に話を聞かせるのは容易なことではないのである。今も行われているのであろうか。

他に、図書館講演会というのが毎年図書館内で任意参加として行われていた。規模としてはちょうどいいくらいだが、放課後実施で任意なだけに、講演を聞く参加生徒を集めるのに苦労したのであった。作家の「探偵はバーにいる」で知られる東直己や直木賞作家の藤堂志津子にも講演してもらった。藤堂は直木賞受賞直前だったと記憶するが、受賞後だったらとても来てもらえなかったであろう。

これも毎年行われていた文化行事は音楽や映画や演劇の鑑賞を行なうもので、よく教育文化会館を会場にして実施されていた。本物の芸術に触れさせようという意図で始ったのであろうと推測する。

さて、もう一つ、静修に赴任した当時驚いたのが、「静修高校研究紀要」と「静修教科研究」という2誌が毎年発行されていたことであった。ぼくもよく書かせていただいたが、前者が個々の研究テーマに基づくレポート類、後者は教育実践の研究例や研究会の参加報告で構成されていた。こういう紀要冊子は大学では多く発行されているが、高校でそういう誌を出しているというのはほとんど聞いたことがなかったのでびっくりしたのである。今は、だいぶん厚さが薄っぺらくなってきたようだが、この2誌の編集企画と利用の仕方によっては教育力の底上げに大いに資すると思いもする。

いずれにしろ、1学年が12とか13クラスとかであったころは学校に様々な意味での勢いがあったことは確からしく思い起こされるのであるが、あるいはそこには回想的な美化の心理が働いているだけなのかもしれないとも思いながら書いてみた。

#チャッピーと怪談(4)

先の共同研究のなかで、澤井先生が当時の現役の生徒、卒業生、教職員、購買の方、毎晩校舎を巡回する管理人さんなどに取材して収集した静修の怪談話が紹介されている。その見出しの項目だけを拾ってみる。

「生徒玄関の鹿」、「エレベーター」、「地下プール」、「トイレ」、「テニス部の部室」、「体育館」、「オーラが見える先生」、「北校舎」、「玄関(ロッカー)」、「病院跡地説」、「怪談踊り場の鏡」、「放送局」、「5階の女の子」、「教室の窓から外を見る女の子」、「教科書」、「修学旅行」、「首無し4番」、「卓球部」、「夜中、校舎から顔を出す少女」、「昼休みのワンマンショー」、「本校舎理科室~音楽室廊下」、「西校舎」、「夜中の足音」、「写真の煙」、「窓の外の影」、「オルゴールの怪」、「何かに押された(本校舎の教室にて)」、「図書館の怪」、「購買の怪」などである。ああ、あのハナシかなと思い出される方もおられるかもしれない。それぞれに具体的な怪異話が紹介されているが、省略。

ただ、想像も含めて紡ぎ出された怪異譚には、まことしやかに語られた事実に反するウソも混じっている。その想像上のハナシと事実を混同するのは危険である。その点は澤井先生も危惧しておられる。「他の怪談同様、静修の怪談話には事実とは全く違う内容も多く含まれる」として、エレベーター事故で死んだり、プール授業で溺死した生徒もいないし、学校が病院跡地に建てられたというのも、きちんと調べれば明らかだが、全く事実に反している。二基あるエレベーターの片方が使われなかったのも、そこで事故があったからなどということではなく、二基を稼働させる必要性が低く、経費やメンテナンス的な意味でも無駄だから稼働させなかったのだということらしい。

だが、それでは面白くないので、いろいろな想像的な尾鰭がついてしまうのである。でも、そうした身もふたもない事実を越えて、怖い、あるいは可笑しいという話はある。そういう想像力豊かな生徒もいたのであろう。そうして生み出されたハナシの内、代々に渡って受け継がれてきたものは、学年を超えて支持され、新たな装いをまといつつ語り継がれてきたのだろうと思う。

同窓生が在籍しておられたころに語られていた怪談にはどのようなものがあるだろう。その記憶の中の怪談を組織的に収集していけば、「静修の怪談」というような冊子が出来そうである。そういう多様な怪談話がたくさん存在するのは、静修高校の100年近い長い歴史とたくさんの生徒が刻んだ精神活動の累積や記憶の厚みによってももたらされているのだと思う。

ぼくも、死んだら、いつか、怖がらせるため、あるいは面白可笑しいおふざけで、幽霊として校舎のどこかに登場してみたい。でも、その前提には、静修高校の校舎が存在していること、ぼくが幽霊として登場した時、それを怖がり、あるいはげらげら笑う(観客としての)生徒の存在が不可欠である。

今、全国的に小中高あわせて年間500校が統廃合などで姿を消しているという。北海道は年間50校が消えているそうだ。地方をドライブすると、もう廃校になった校舎をよくみかける。静修高校という実体が消えたら、死んだ後のぼくの霊は出番がないまま、南十六条あたりをあてもなく彷徨うしかなくなる。それはさびしく、むなしく、怖いことである。

#チャッピーと怪談(3)

チャッピーという命名については、岡部先生の説が有力である。

「今では彼は「チャッピー」と呼ばれている。では、どの時点で名前がついたのであろう?卒業生にいろいろ聞いてみたところ、どうやら男女共学になったころ、つまり10年ほど前に、「彼」は初めて名前を持ったようである。しかし初期のころには、「ドロシーと呼んでいた」「花子だった」などと諸説あり、統一性はない。まだ局地的な名づけであり、共同性はさほどでもなかったようである。それが、ここ数年、「チャッピー」に統一されるようになった。それはTBS系のバラエティー番組「金スマ」のキャラクターが鹿のイラストで、「チャッピー」と呼ばれているからなのだそうだ。(中略)かくして「生徒玄関の剥製の鹿は「チャッピー」になった」。

語りの筋立てやキャラクターの名前が定着すると、今度は、そのハナシの語りという細部が工夫されてくる。一晩中、問谷先生を乗せて走り回った鹿は、さすがに体力を消耗し汗もかく。その証拠に、朝、鹿に触ってみな、毛皮が汗でしっとり濡れているから。というような細部のリアリティで補強されはじめる。ぼくも触ってみたことがあるが、そんな風に言われてみると、なんだか湿っぽいような気もするのである。ただ、ほころびた毛皮の継ぎ目あたりから、中に詰めたわらなどが見えて、チャッピーが生きて来た長い時間を思ったりするのである。どれだけ多くの生徒にチャッピーは愛され、可愛がられてきたのであろうとも思うのである。

毎年、入学式の受付はチャッピーのいる廊下に長机を並べて行われる。新入生が静修に入ってまず印象付けられるのがチャッピーの姿である。そして新入生に対するオリエンテーションが行われる時期に、生徒玄関に横付けされた健診車で結核健診のレントゲン写真を撮ることになる。その時、新入生たちはクラスごとにチャッピーの前の廊下に整列して順番を待つことになる。その順番を待つ間の手持無沙汰に、チャッピーを眺めたり、つついてちょっかいを出したりする姿をよく見かけた。つまり、入学すると同時にチャッピーが高校生活のスタートと共に印象付けられるのである。

文化祭では、招待客に対面して、首輪をさせられたり、鼻輪をつけられたり、花飾りで飾られたりする。卒業の日にはチャッピーの首に抱きついたり、頭を撫でて別れを告げる姿もある。チャッピーは静修の生徒の3年間を見守る守護神のような象徴的存在でもあるのかもしれない。

以前、テレビのニュースにもなったが、静修近辺に(生きた)鹿が現れて、ちょっとした騒ぎになったことがあった、その鹿は追い立てられて豊平川沿いに石山方面に逃げて行ったようだが、その時、前夜、お忍びで、孤独なチャッピーのところに彼女が会いに来たという妄想が浮かんだ。二頭で仲良く夜の校舎から街の夜景を見ながら、甘くささやきかわす姿を想像してみたのである。チャッピーもなかなかやるじゃん。

#チャッピーと怪談(2)

岡部先生は放送局で「チャッピーは草原の夢を見る」というタイトルのテレビ番組を制作されたとのことである(その作品を見たことはないが、とても興味がある。見てみたい)。その際、「放送局員が生徒に取材してみると、「どうしてチャッピーは夜中にはしるのか?」と聞いたところ、多くの生徒から同じ答えが返ってきた。「チャッピーは死んでからも台座にしっかり固定されて身動きが取れなくてかわいそう。だから、誰も見ていないときだけでも自由になりたくて、こっそり夜中に走り回ってるんじゃないの?」

この生徒たちの答にぼくはなるほどとうなったのである。岡部先生は、そこから「固定されて身動きが取れないのは生徒たち自身である」と読み解く。学校という秩序の中で、試験や、校則や、人間関係に縛られて窮屈に「固定されて身動きがとれな」いという心理状態が、台座に固定された鹿の姿と共感的に二重写しになり、せめて無人の夜ぐらいは解放して、自由に走らせてやりたいというような心情的な共感が、この鹿伝説を生み、支えてきたのではないかというような趣旨の分析をしておられる。納得できる解釈である。

澤井先生はその鹿に問谷先生が乗って走り回るという筋立てに注目して次のように分析しておられる。

「バレー部顧問の先生は当時とても怖い存在だったらしい。大柄で、体育館で仁王立ちになりバレー部の指導をする。現在は包容力が全面に出ている先生も、25年前は生徒指導などで恐れられていた。(中略)怪談を語っていた当時の女子生徒たちの気持ちも容易に想像できる。「あの先生、スカート丈長くしていたら(当時はくるぶし丈流行中)すっごく怖い声で叱るんだよね。腹立つけど、大きいし勝てないし、仕方ないからスカート普通丈にしたさ。でも、悔しい~。鹿の剥製の上に乗っけてやる!」かくして化学の先生は鹿の上に乗り、しかも王子様の格好をしていたなどというバリエーションまで発生する。王子様の格好の話を作ったのはバレー部の生徒かもしれない。日ごろの練習の恨みを想像の中で間抜けな格好をさせることによって晴らす・・・」。

すでに流布していた鹿伝説の基本の枠組みを利用して、こうした新たなバージョンが生まれたのかもしれないなあと思う。でもこのハナシには顧問教師に対する生徒たちの愛が感じられる。

ところで、あの鹿は、いつから、なぜチャッピーと命名されたのだろう。(・・・続く)

 

#チャッピーと怪談(1)

静修高校で最も知られた怪談(伝説・言い伝え)は生徒玄関前の廊下に飾られた鹿の剥製(チャッピー)が夜な夜な校舎の中を歩き回るという話であろう。いろいろな語りのバリエーションがあるようだが、それがいつ生まれたのか、いつチャッピーと名付けられたのははっきりしない。先に引用した「共同研究 学校の怪談」の澤井先生、岡部先生の分析を読み直すと、ある程度の輪郭は浮かび上がってくる。

岡部先生によると、「あの鹿は寄贈されたもので、寄贈されたのは昭和41年。まだ現在の校舎が建つ前の出来事だ。寄贈者名も台座に書かれているが、詳細については、今はもうよくわからない」そうである。だとすると、あの鹿伝説が生まれたのは、少なくとも寄贈された昭和41年(1966年)以降である。岡部先生は「現在の新校舎が建つ前の出来事だ」と書いておられるが、静修の歴史年表を見ると、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)に「新校舎落成記念式典」が行われたとあるので、新校舎落成以後と考えられる。とすると、寄贈された年にはすでに新校舎の現在の位置に設置されたとも考えられる。と仮定すると、もっとも古く見積もって、あの鹿はあの場所で42年間立ち続けているということになる。

では、いつ頃鹿伝説がうまれたのであろうか。岡部先生は「私が勤務した21年前からすでに、「あの鹿は夜になると校内を走るらしい」「エレベーターに乗って移動するんだって」などという話がまことしやかに話されていた」と書いておられる。この文章が書かれたのが平成21年(2008年)であるから、計算すると平成元年(1989年)にはこの鹿伝説のベースになる部分はすでに広く流布していたと考えられるが、それがどこまで遡れるかはわからない。

澤井先生は、鹿に「バレー部の顧問の先生が乗っているという話は25年前にはあった」という。ということは昭和60年(1985年)にはすでに問谷先生が鹿に乗って深夜の校舎内を徘徊していたわけである。

では、なぜ、この鹿が夜に校舎内を歩き回るという話になったのだろう。(・・・続く)

#小説・児童文学(7)

澤井先生は昨年(2018年)の3月で早期退職されたが、7月に同じフレーベル館から二冊目の本が出版された。『ローズさん』という一冊である。澤井さんの本の「あとがき」から引用してみる。

「不思議な話が好きです。怖い話も。

この本は私の二冊目の本です。一冊目の『赤いペン』の姉妹編となります。(中略)

自信がなくて人を頼りがちな惟。上手に話せるか不安もあります。多くの人が発信者になっている現代、自分のことを上手にそつなく表現することが求められます。こんな時代だからこそ、上手な聞き手は本当に希少な存在です。私は上手に話すこと以上に、上手に人の話に耳を傾けることは大事なことだと思うのです。聞くということは「その人そのものを聞く」ことです。それがひとり分のスペースしかないはずの狭い自分をちょっと広げるような気がします。」

物語は小樽文学館を思わせる図書館を作品の空間の中心に置いて、小樽(という地名が出てくるわけではないが)の街の空気感に覆われている。この街に伝わる「ローズさんの呪い」という謎を追っていく謎解き型のストーリー展開である。「街をさまよう幽霊」は夜のアーケード街や学校や教会に現れたりするのだが、怪談的な怖さより、思春期の少女の内面の不安や孤独、成長といった要素の方が強い構成だと思う。

この北の街の中学校に転校してきた惟。

「放課後の音楽室に西日が射しこんでいる。静まり返った音楽室の床に惟の影が細く長く伸びている。

惟は部屋のすみに置かれたピアノのふたを開け、いすに腰かけて高さを調整する。目を閉じて一度深呼吸してから、弾きはじめる。

だれもいない部屋に惟のピアノの音だけが響く。ふだん心の中に閉じこめられているさまざまな思いが音になってあふれ出る。」

という書き出し。だれかがいる気配を感じ振り向くと音楽室のドアのガラス窓から見知らぬ少年がじっと見つめている・・・。さあ、なにが起こっていくのであろうか。

澤井さんは、遠慮しておられるのかあまり自分の本のことを言われないようだから、いらぬお世話かもしれないが、ぼくが代わって紹介、宣伝してみることにした。もし興味があったら書店の児童書コーナーで手にとってみてください。

同窓生の皆さんも、静修の怪談話をアレンジし、想像力を膨らませて怖い物語を書いてみませんか。

#小説・児童文学(6)

そうした怪談話の延長でもないが、静修国語科の澤井先生が、赤いペンをめぐる不思議な出来事をめぐる物語を書いて、2014年に「第16回ちゅうでん児童文学賞」の大賞を受賞された。児童文学では全国的にとても権威のある賞である。その時の作品選考委員の顔ぶれがすごい。児童文学者の今江祥智、詩人の長田弘、哲学者の鷲田清一といった各界の一流どころである。今江、長田両氏はそのあと、時を経ずして相次いで亡くなられたが、その「選者の言葉」を一部引用してみる。

「今回の受賞作、『赤いペン』のペンは、自分を必要とする人間をさがして渡り歩くペンで、その人の前に、落とし物という形であらわれ、問題を解決しては、いつのまにか消えている――という物語ですが、ほかのものにはない面白みを感じることができました」(今江)

「人の心の中には、他の人にはのぞきこめない、自分しかのぞきこめない、空白の部分があります。その何もない空白の部分というのは、無しかないのではなく、雨が降ればそこにあると知れる。けれども、晴れればどこにもない。あってなき、なくてある、いわば心の中の水たまりというべき領域です。

水たまりをのぞきこんで見えるのは、自分によく似たもう一人の自分と、頭上にだはなく、自分の足下にひろがる空。『赤いペン』を読んで強く感じたのは、これは人の心の中の水たまりの物語だということでした。あって消え、なくてまた現れる、人の心の中の水たまりの物語」(長田)

「ひとにはだれも、思い出さないようにしてきたことがある。それを隠し持っている。それについては口にできないし、書くこともできない。赤いペンはそういうひとの許を訪れて、そこから物語を紡ぎ出してくれる。そのことでひとを、取り返しのつかない過去と和解させてくれる。(中略)

声高に主張される「大きな物語」ではなく、こころの傷口を、うぶ毛でできた筆先でそっと縫合してくれるような「小さな物語」の連なり。物語についてのみごとな物語です」(鷲田)

この受賞作はフレーベル館から2015年に一冊の本として出版された。本の帯には「怪談?都市伝説?」とあるが、怪談というより都市伝説寄りの物語であろう。この本は中学生の夏休みの課題図書にも指定されたはずである。回転速度の速い現在の新刊書店にあって、先日のぞいたコーチャン・フォーでは児童書コーナーにまだ平積みされていた。すでに版を重ねてロングセラー化しそうな勢いである。小学校高学年から中学生向けの物語なのかもしれない。そういう年頃のお子さんがおられたら、紹介してみてください。

 

#小説・児童文学(5)

また、前回引用の共同研究の文章中に、次のようにも書いた。

<さて、夜に校舎内を駆け回る鹿の話であるが、これを書いたときには鹿に名前があると聞いたことはなかったが、最近は「チャッピー」という名前で語られている。書いたころ、ぼくが知らなかっただけか、その後のどこかから名前がついたのかはわからない。また、その背中に問谷先生がまたがって駆け回っているのだという話に現在はなっている。これもわりと新しいバリエーションではないかと思う。よりによって、身体の大きな問谷先生を選ぶとは、鹿も負荷が大きくて大変だろうが、最初聞いたときはその取り合わせが想像されて思わず笑ってしまった。>

<鹿が壊れて姿を消せば、この怪談も話の依りどころを失って消滅してしまうであろう。いずれにしろ、学校の怪談は類想の話型が多いが、この鹿の話は、本校独自のオリジナルであろう。でも、そもそもなんであそこに鹿の剥製などがあるのだろう。そうした素朴な疑問をだれでも持つであろう。そういう疑問に答えを与えようとして(ちっとも答えにはなっていないが)、そうした何世代にもわたる生徒たちの関心を肥料として育ち、支えられた鹿伝説なのかもしれない。>

問谷先生は既に退職されたから、毎年入れ変わる生徒の間で、鹿にまたがる問谷先生という伝説は、語りの共通基盤を失ってしまうであろう。その時、次にだれが鹿にまたがるのか興味深い所である。とりあえず三宅先生でもおもしろいなあ。話がうるさくて鹿も嫌がるかもしれない。うるさいなあと言って振り落してしまうかもしれないが。このチャピーの背中に乗る先生をいろいろ代入してみてください。新たなおもしろい伝説がうみだせるかもしれません。

そこで引いた常光徹の『学校の怪談―口承文芸の展開と諸相』(ミネルヴァ書房)中の言葉を引用しておきたい。

<妖怪の出現は、均質な集団の緊張を束の間ときほぐす。それは、教室の秩序に一時的な混乱をもたらすことにほかならないが、じつは、彼らはそうしたカオスの状態に乗じるようにして、日ごろうっ積したある種の負のエネルギーを巧妙に放出しているらしい。妖怪騒ぎは、学校という制度のなかで、個の意志とは無関係に持続を強いられた集団の精神的な緊張が沸点に近づいたとき、その解消と冷却を求めようとして、子どもたちが創出したたくまざる文化装置だと理解してよいだろう。>

ということで、やっと澤井先生の本にたどりついた。

#小説・児童文学(4)

前回引用の共同研究の文章中に、次のようにも書いた。前に修学旅行についても書いたので、その補足の意味もある。

<(全国的に)泊まった旅館にあやしげな幽霊が出たといった話のパターンは多い。実際、修学旅行引率中にそういう女生徒たちの騒ぎに往生した記憶がある。修学旅行が怪談ネタになる理由は容易に想像がつく。学校や家の日常から切り離され未知の空間を体験していること。寝不足や旅の疲れで心身ともに疲労が蓄積して精神的に不安定な状態にあること。そこで、誰かが怖い体験をしたという種をまけば、集団心理的にヒステリックな恐怖が燃え上がってしまうこと。など、そういう話を生み出す非日常的な条件が満たされていることが怪談話の温床に当然なるわけである。>

実際に、修学旅行中に泊まった宿の生徒の部屋の隅に、生徒がやったのであろうが、白い紙の上に塩を円錐形に盛り上げたりしていたのを見た記憶がある。夕張での宿泊研修でも似たようなことがあった。

一方で、以前、ラーメン屋の玄関先に似たように塩を盛り上げているのを見たことがある。その店主に、あの塩は何の意味があるのかと聞いたことがある。嫌な客は来るな、という魔除け的な意味なのかと思ったが、違っていた。店先に塩を盛っておくと、それにひかれて牛(だったように思うが、中国当たりの故事に由来するのであろうか)がいっぱいやってくる。そんなふうに客がいっぱいやってきてほしいというおまじないのようなものだと説明された。同じ塩でも、忌避と歓迎という正反対の意味をもつのだというのが新鮮な発見であった。

(前振りはもう少し続く。)