#学校行事(3)

文化祭は以前は秋に行われていたが、今は夏休み前の7月に行われている。バザーやステージ発表、クラス展示、校内装飾などのどれがやりたいかクラスから希望を取り、調整して割り振るシステムである。

先日の同期会で同窓生の方から、昔クラスステージをやった時の記憶が語られて思い出した。クラス全員でステージに上がって踊るような趣向の発表だったと思うが、生徒にあおられて担任のぼくも出演することになった。ちょうどドリフターズの「ちょとだけよ、あんたも好きね」というのが流行っていた。ぼくは女装し生徒たちをバックにして舞台中央に立つ。照明が少し落とされ、タブーという曲が流れる。ぼくは足を崩して座り、斜めに身体を傾けてスカートをめくりあげ、「ちょっとだけよ」とやらかした。多少は受けたかもしれないが、会場で見ていた英語の池田先生から後で大目玉をくらった。「生徒たちの前でやるようなことじゃない。お前は下品だ。教師として恥ずかしくないのか」みたいな叱責だった。大先輩の言葉であったので、「軽率でした」と頭を下げた。若気の至りというやつ。ほろ苦い思い出である。まあ、文化祭には愉快、不愉快さまざまな思い出がある。

前夜祭では、花火があった。静修の敷地では消防法か何かに引っかかって花火を打ち上げることなどできない。遠く茨戸の川の中程にあった島に全校生徒がバスで移動する。若手の男性教員は鉄道の敷地から枕木をもらい受けて運ぶ。乾燥したうんこがこびりついている上に古い枕木はやたらに重い。その枕木を高く井桁に組んで、その中に雑把木をいっぱい詰め込む。生徒たちが到着し、暗くなるのを待って、その枕木に油をぶっかけ点火すると、勢いよく炎が上がり、棒でつつくたびに無数の火の粉が舞い上がる。その周りを取り囲んで、昔のこととて、フォークダンスが始まる。大がかりなファイヤストームである。興奮が最高潮に達した頃、仕掛け花火に点火され、バチバチバチという音とともに「静修」という文字が浮かび上がるや、空に何発も花火が打ちあがり大きな歓声が上がる。青春でしたなあ。

このファイヤストームも花火も中止されてから年月が流れたが、ぼくの勤務最後の年にばんけいスキ-場を借りて再開され、感慨深いものがあった。ただ、再び中止になったようである。理由は知らないが、その莫大な労力を考えるとやむを得ないとも思う。ぼくの自宅の近くにある西陵高校では毎年打ち上げ花火をやっており、近所の人たちと見上げるのだが、それを見るたびに若い頃の茨戸の燃え上がる枕木と花火を思い出すのである。

 

#学校行事(連載割り込み3)

体育祭の時、部活の生徒が午前の部の最後の競技であるマラソンに参加する。そしてその後、バスケ部やバドミントン部などの生徒がランニングで学校まで帰るというのは恒例であった。その後に、さらに部活の練習があるというのは大変なことである。若さなればこそと思うが、そのハードな体験は青春の甘苦い記憶とともに、その後の生きる上での力にもなっているのではないかと想像するのである。

ぼくは中学生の頃はバスケット部で、県でも結構なところまで勝ち上がるチームであった。その中学は駅伝にも力を入れていたので、運動部の部活に属している生徒は全員、放課後の部活の練習前にタイムを測りながらの1500メートル走とか、3000メートル走を毎日義務づけられていた。ぼくは駅伝の大会にも引っ張り出されていたのだが、年を取ってから郷里に帰った折には、その自分が走った区間のあたりを車で通るたびに、そのころの記憶がよみがえるのである。一度、自分の区間を走り終えて、次の選手にタスキを渡そうとしたら姿が見えない。タスキを手に足踏みしながら探していたら、次のランナーの友人は十秒近く遅れて道路わきの畑から現れた。緊張したせいか、畑の中で立ちションベンをしていたのであった。大きな時間ロスになったのであった。高校ではサッカー部に入ったが、その高校では毎年全校生徒の24キロマラソンというのがあった。全校で3位に入ったことがある。陸上部の長距離選手の友人を抑えてゴールしたのがうれしかった。昔の話である。だが、その後の人生でしんどいことに出遭うたび、あの頃あれだけがんばれたのだから、このハードルが自分に越えられないはずはないと自分に言い聞かせたものである。

球技大会で、3年生の優勝チームと教員チームの対抗戦が組まれていた。若い頃はそのバスケットの試合に出るのが楽しみであった。ところがある年齢になってから、自分の身体イメージと現実の自分のプレーが大きく狂い始めたのである。若い頃の力感覚でミドルシュートを打っても、リング手前でボールが失速するのである。これはショックだった。若い頃に身に着けた自分の身体感覚と現実の筋力がすっかりずれてしまっていたのである。50代になってから中学生の息子のサッカースクールの保護者チームに入って、仕事が終わってから週に一回の夜の練習に加わっていたことがある。他のメンバーはみんなぼくよりはるかに若い。もとJリーガーのコーチの指導を受けながら時々練習ゲームを行なう。そこでも同じ感覚を味わった。頭の中にある自分の若い頃のプレーイメージと現実の身体能力の落差に愕然としたのである。しばらくして、ぼくはすごすごと退部を申し出た。

年を重ねるに従って身体能力が落ちるのは当たり前の話である。であるとすれば、年齢を重ねても落ちないのは、若い時の身体感覚や精神的な感覚記憶である。体力のある若い頃に積んだハードな体験は、ある種の精神的な体力として、その後の人生の局面で生きてくるはずだと思うのである。

若い頃は腕立て伏せ、背筋、腹筋は何十回も出来たが、最近、もう一度鍛え直してみようと試みて再び愕然とした。腹筋をしようとして、全く身体が持ち上がらないのである。ギョエーと思いながら身をよじったのである。偉そうなことを書きながら、長年のビール痛飲のせいか、痛風の症状が出て来てうろたえている現在なのである。

 

 

 

 

 

#学校行事(連載割り込み2)

3年生の藻岩山登山のとき、途中でへたばって動けなくなった生徒がいた。その生徒を男性教員が交替で背負ったりしながら頂上まで運んだことがあった。その背負いを中心になって担ったのが問谷先生ではなかったかと記憶する。先に頂上に着いた生徒たちは頂上で弁当を広げ、その生徒に連れ添った教員と、励ましながら連れ添ったその友達思いの生徒がやっと頂上にたどりついた時には、全体はもう下山の準備をする時間になっていた。こういうでこぼこの人間の能力を補い合うのが健全な人間社会であるという意味で、生徒にとっても教員にとってもとても教育的な意味がある体験だったと今、振り返る。

人間の能力や特性は様々である。勉強が苦手でも、スポーツや芸術表現や人間的な優しさで能力を発揮する生徒もいる。勉強という単一の物差しだけではない、様々な能力を発見し、認め、その多様な能力を発揮できる場として学校行事の意味を考えることも大切だと思う。そもそも、人間の社会はそういう多様な能力による相互の補い合いからなりたっているのだから。

遠足で思い出した。岩見沢の三井グリーンランドやテイネオリンピアの遊園地(今はどうなっているか知らない)へ行ったこともある。行くのは平日であるから、他の客はほとんどおらず、ほぼ貸し切り状態である。ぼくは、何回もゴーカートを楽しんだ。ルスツにいったことも何回もある。ぼくは怖い乗り物が苦手で、乗り物は避けていたが、小宮先生と一緒に行った時には強引に誘われて、フリーホールだとか、スペースショットだとかループ・ザ・ループだとかにつきあわされた。スタート前のギリッ、ギリッ、ギリッと巻き上げる音が一番怖かった。

登別のマリンパークにも行ったことがある。けっこうやんちゃなクラスで、そのクラスの先輩担任から「おれは都合が悪いから行かないよ」と言われ、「エエーッ」と思ったが、その時に学年主任であったぼくが仕方なく代理で引率したのであった。着いてすぐに生徒たちがトイレに入っていく。出て来た姿を見て仰天した。みんな、ものすごい化粧をして現れたのである。注意しようにも、学校を離れた場所で、多勢に無勢、お手上げだった。帰りのバスの中で、「学校に着くまでにはその化粧を落とせよ」と言ったのだが、ほとんど無視されたのだったと思う。これは最初に書いた個人の能力の特性とか個性とかとは何の関係もない振舞いである。そういう年頃なのだろうが、本当にまいったのであった。

 

#学校行事(連載割り込み1)

学校行事(1)(2)についての反応コメントを読みながら、いろんなことを思い出した。 体育祭のマスゲームの記憶について書いた。それについて、小倉先生の全体のリズムを合わせるための「デンデデン、デンデデン」という太鼓の音について書いたコメントがあり、その音の記憶がよみがえったのであった。

マスゲームに対する感動と、国家主導のマスゲームのもたらす違和感について、自分でも整理しきれないというようなことを書いた。最近、全国高校野球100回記念大会を記念して流される女子高生の応援ダンスの映像をよくテレビでみかける。そのキレのある躍動感のかっこよさにはまってしまった。いろいろなバージョンがあるようで、先日は福山雅治がNHK高校野球の「甲子園」というテーマソングを女子高生たちのダンスをバックに歌う映像を見た。ミュージックステーションで、嵐のメンバーが女子高生たちのダンスを背景に歌って踊る映像を見た。目は福山や嵐よりダンスにいってしまったが、どれもカッコよかった。

マスゲームは基本が静止的で、ダンスは動的という違いはあるのだろうが、一般化はできないとしても、マスゲームはまず「全体」があり、その設計図に従って「個」が集合的に配置されて動くというイメージが強いが、ダンスパフォーマンスは一人一人の「個」のリズムや身体の表現衝動がまず前提にあって、その「個」の躍動感を最大限に発揮できるように集団的な「全体」の流れが構成されていくといったイメージを持った。

これも妄想だが、もし、体育祭で3年生全員によるダンスパフォーマンスの演出が実現したら感動的だろうなと想像してみたりするのである。個々の持つリズム感や身体能力のレベルはバラバラであろうから、それを一つに合わせるのは至難の技であろうが、今どきの高校生ならある程度のレベルまでこなせるのかもしれない。多少バラバラでちぐはぐなものになっても、それはそれで愛嬌で、それもまた味だと思いもする。そんなことが実現したら、ぜひ見に行きたいものだ。

じきに夏の甲子園が始まる。この夏もビール片手にテレビの中継にかじりつきそうだ。

 

#学校行事(2)

静修に勤め始めの頃、円山競技場で行われる体育祭のラストでマスゲームが行われるのが恒例だった。生徒も大変そうだったが、指導する体育の先生も大変そうだった。でも、応援席の高みから初めてそれを見たときにはとても感動した。その光景はなつかしいのだが、今、ニュース映像で北朝鮮のマスゲームのような集団の演技を見ていると複雑な気持ちになる。集団が規格通りに同じ動きをするのをみていて感動するという感覚に違和感を覚えるようになった。そのあたりの感覚の整理がぼくにはまだうまくできないのである。

春には学年ごとの遠足があった。藻岩山、大倉山、真駒内、野幌森林公園などに行った記憶がある。さぼり防止のため、欠席した生徒は後日、河川敷を歩くというペナルティが課せられていた。一度、野幌森林公園で先導する先生が路を間違え、予定外の場所に出てしまったというようなことがあり、翌年から学年主任はあらかじめコースを下見しておくようにと言い渡された。ぼくは遠足のある週の前の日曜日に一人でコースを歩き、本番でももう一度歩くという二度続けてのしんどい遠足になったことがある。

秋には十五島公園、滝野などでの炊事遠足。3年生はクラス単位で行き先を選び、ルスツへ行ったり、小樽を散策したり、余市方面にぶどう狩りに行ったりとそれぞれであった。このとき3年生だけ私服が許された。その時代の流行のファッションで身を固めてやってきた生徒も多かった。

炊事遠足で一番気がかりなのは天気である。前日に食材や炭を買って用意しているので、中止となると面倒なことになる。以前は、当日の早朝に校長、教頭、学年主任、保体部の責任者が集まって予報を見ながら決行か中止を判断する。中止の場合は連絡網でできるだけ速く中止連絡を流すことになっていた。

ある時、中止の決断が下された。ところが、午前中の内に天気は回復に向かい、やがて陽も差し始めた。このときは、授業に行くのが苦痛だった。そもそも生徒は遠足に行くつもりだったから授業には身が入らない。窓の外をみては恨めし気にため息をついたりする。「なんで中止なのさ、ばっかじゃないの」と抗議する生徒もいる。なぜか、この時のことを思い出すと佐藤堅一先生の顔が浮かぶ。あの時の判断をした学年主任の一人だったのかもしれない。今は、多少の雨予報でも決行する、と前日の帰りのホームルームまでに伝えるようになっているようだ。(・・・続く)

 

#学校行事(1)

かつてはひな祭りや針供養などが行われていたようであるが、針供養などをご記憶の方はまだご存命だろうか。定山渓強行遠足というのも行われていた時期があるらしい。静修から定山渓まで歩くという行事である。

この強行遠足を再現し、実際に歩いてみようという企画を渡辺重夫先生が中心になって実行されたことがあった。教員有志で学校を夜中に出発し、てくてく歩き続け、夜が明けたころに定山渓に到着して、温泉に入るというものである。これは意外ときつかった。

かつてはこういう行事はたくさんの学校で行われていたようであるが、安全性などを理由に次々中止になっていったようである。一度支笏湖にドライブした折、高校生たちがぞろぞろ歩いて支笏湖を目指していた。聞いたら札幌開成高校の生徒たちであった。今も行われているのかどうか知らないが、こういうきつい行事は生徒も大変だが、教員も事故が起こらないように、健康管理や道々の要所に立って指導するなど安全面でなかなか大変であろう。

ただ、ハードな障害物を設定し、それを自分の力で乗り越えさせるという体験は大事だと思う。やりきったことがもたらす達成感を若いうちに体験しておくことは一つの自信としてその後の人生に生きてくるのだと思う。総じて、時代の流れとしてそのハードルはどんどん低くなってきたように思う。

受験もそうだ。たとえば団塊の世代は生まれてからずっと競争にさらされて、もまれてきたのだと思うが、受験倍率を今と比べればとんでもなく高かった。相当頑張らないと大学に合格するのは困難だった。当時は受験戦争という言葉もあった。その状況については様々な批判もあり、確かにそうだとも思う。しかし一方で、それは現代では少なくなった青春期の通過儀礼的なものとして、越えていくしかないハードルとして擬似体験させるという側面ももっていたかもしれないとも思う。様々な民族や文化において成人として社会に認められるためには通過儀礼として何らかの困難な課題をクリアすることが求められるというシステムがあった。現在の社会ではそうしたハードルは下げられ続けてきて、それはそれでいいことなのだが、高い山を越えたという達成感が持ちにくいという点でいえば、受験の厳しさであれ、強行遠足のきつさであれ、青春期に経験しておくことの意味は大きいと思う。すべてを低く均して歩きやすくするだけでなく、その道に時に人為的にでも大きな石を転がしておくメリハリも必要だと思う。教師根性が抜けきらず、すっかり話がそれてしまった。話を戻す。(・・・続く)

 

 

#うんこネタ4連発(4)

「官能の一夜」

心臓検査で入院していた時の話である。深夜、妙な声で目が覚めた。カーテンを隔てた隣のベッドの重症患者の所で影がもそもそ動いている。「アッツ、アッツ、もっと、そっと」「もうちょっと脚をあげて、痛くないようにゆっくりするから、」「腰を浮かして、それでぐっと力をいれてみて」押し殺したその声は、ぼくがあこがれていた若い美人の看護婦さんの声ではないか。「膝をもうちょっと立てて、そう、いいわよ」「アッ、アッ、ウーン」「もう少しよ、頑張って、ほらもっと、そう、もうちょっとよ、お腹にぐっと力をいれてみて」「アアッ、出そうよ、出るよ」「硬いのが顔を出してきたわよ、ぐっと力を」「ウーッ、アッ、アアー」カーテンガ揺れ、淡い光に影が動く。やがて深いため息。

と同時に便の強烈な臭い。固くなって肛門につっかえて出なくなった便をかき出したのだった。他の患者の眠りを気遣って押し殺した看護婦さんの声と、カーテン越しに揺れる影は実に官能的であった。と同時に、彼女が本当に天使と見えた。

 

*こんな具体的な描写はしなかったが、入院体験から、将来君たちはどんな仕事に就くかわからないが、それがどんな職業にしろ、その仕事は自分のためであると同時に、他者のための行為でもあるのだから、その道のプロであるという気持ちで自分を磨いてほしいというような話をした記憶がある。

#うんこネタ4連発(3)

「便所紙、一枚」

今では何という歌であったか全く思い出せないのだが、韓国の女性歌手が韓国語で哀しみの情感を切々と歌い上げた曲を聴いていた時のこと。韓国語は全く分からないので、そのメロディと歌声の哀感に浸っていたら、繰り返されるフレーズが突如「ベンジョガミイチマイ」と耳に聞こえてしまったのである。一度そのように耳が聴いてしまうと、何度聴きなおしてもそう聞こえてしまうのである。そのメロディの哀調から考えて、「あなたと別れて、つらいのよ」みたいな、女、涙、酒、別れ、ため息的なニュアンスの歌詞なのだろうと想像はつくが、耳が聞きとってしまった「ベンジョガミイチマイ」との落差に頭が分裂してしまったことがある。

トイレで美しい女の人が用便を果たしたものの、紙がなく、涙を流しながら、こぶしをきかせて「神よ!」ならぬ「紙よ!」と悲劇的状況を歌い上げているようで、なんともちぐはぐで一人面白がったことであった。極限状況に置かれた人間の哀感が実に深くにじみ出た歌であった。

 

*この歌手はキム・ヨンジャではなかったかと思うが、なんという歌であったかは思い出せない。ひまなときに、そう聞こえる歌を探してください。

#うんこネタ4連発(2)

「流れぬ便」

 

 汚い話ついでに、妻が入院してしまった時の話である。そのころ中学生であった長男を頭に三人の息子と一匹の犬、一匹の猫の世話をするはめになった。掃除、洗濯はそんなに大変ではなかったが、食事にはまいった。一番困ったのは、分量の加減がわからないことであった。適当に本を見ながら作り終えたら、ページの最後にこれで十人前ですなどと書いてあって、ギョエーと仰天したりした。しかし、残すのはもったいないので、死ぬ気で食べろと命じて、うまかろうがまずかろうが、量だけは息子たちの腹に詰め込ませた。

 「お父さんのやりかたは無茶苦茶だ」などと文句を言っていたが、ある日、これを見ろと長男に便所に連れていかれた。「無理やりいつも食わせるからこんな巨大うんちが出て、流れていかないぞ」と言うのである。確かに巨大だった。太さといい、長さといい、尋常ではなかった。何回流しても、そのたびににゅりゅにゅりゅという感じでもどってくる。仕方ないので、責任をとって、僕が割り箸で砕いて流したのだった。

 

 *コーンスープがまずくなったらごめんなさい。このころだったと思う。まだ小さかった三男を預けられないとき、授業の間、静修の購買や図書館で面倒を見てもらったことがあった。本当に助かりました。感謝しております。その三男も今年結婚しました。

 

うんこネタ4連発(1)

 この欄に書いたぼくの文章を読んでいて、昔ぼくが書いたうんこ話を読んで笑ったことがある、という反応をいただいた。また同期会で、授業中に子育てはいろいろ大変だよと話した話の一つをいまだに記憶しているという方がいた。こうしたネタはかつて札幌であった全国私学教育研究集会に参加された先生方向けの広報紙に連続的に掲載したこともある。若い頃の文章だが、今、読み返すと、まじめな教員の研究集会広報紙によくこんなものを載せてもらったもんだと冷や汗が出る。ということで、その中から、うんこ体験のネタで書いたもの4本を拾い出して再掲載させていただこうと思いついた。笑って読んでいただければ幸いである。

 「黄金色のリサイクル」  

  わが息子がおしめをしていた頃の話である。仕事から帰って、疲れてビールを飲み、ストーブの前で僕はうたた寝をしていた。髪の毛を引っ張られ、ねぼけ眼で首を持ちあげると、息子が小さな親指と人差し指に何かつまんで、マンマ、マンマというのである。菓子くずか何かであろうと思い、アリガットとかいいながら口に運び、かみくだいて飲み下したら、口中に異様な臭いが漂い、パッチリ目が覚めた。

 息子のむき出しの尻の丸みのむこうに、ずっぽり脱げ落ちたおしめがみえた。いやな予感がして半身起こすと、ころころしたウンコと一緒に未消化のまま転がり出たトウモロコシ粒が散らばっていた。アヒョーッととびあがったが、時すでに遅かった。チョコレートまぶしならぬウンコまぶしの黄色いトウモロコシであったのだ。昨日のコーンスープを温め直していた妻が台所で、田舎のばあさんの挨拶よろしく、腰をペッコン、ペッコン折り曲げて「バーカ、バーカ」と笑い転げていたのである。親子二代の腸管を下って消化された幸せのトウモロコシなのであった。トウモロコシとしても本望であろう。(中略)

 もし人間がウンコを食って生きていくことが可能なら、これは永久運動装置に似た究極の自己循環サイクルであって、食糧問題もいっぺんに解決するだろうなどと馬鹿なことを考えてしまうのである。(後略)