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静修の友 最新記事

#y=ax

一時、ベストセラーになった養老孟司の『バカの壁』(新潮選書)の中に「脳の中の係数」という章があり、数学音痴のぼくにもシンプルで分かりやすい説明があった。「入力」(「情報が脳に入ってくること」)をxとし、「出力」(その情報に対しての反応)をyとするとき、「この入力をx、出力をyとします。すると、y=axという一次方程式のモデルが考えられます。何らかの入力情報xに、脳の中でaという係数をかけて出てきた結果、反応がyというモデルです」として、次のように言う。

<このaという係数は何かというと、これはいわば「現実の重み」とでも呼べばよいのでしょうか。人によって、またその入力によって非常に違っている。通常は、何か入力xがあれば、当然、人間は何らかの反応をする。つまり、yが存在するのだから、aもゼロではない、ということになります。

ところが、非常に特殊なケースとしてa=ゼロということがあります。この場合は、入力は何を入れても出力はない。出力がないということは、行動に影響しないということです>

として学生に「出産ビデオ」を見せた時に男子学生が何の感興ももたらさなかった、すなわち「係数aがゼロ(または限りなくゼロに近い値)」だったという体験例を引く。なるほどと思ったが、係数a(「現実の重み」)、ぼくはこれを興味・関心と置き直して読みましたが、それがゼロであれば、いくらxという情報をたくさん与えても、その情報に対する反応のyはゼロにしかならないということであろうと理解したのでした。

これを、現実の目の前の生徒に転用して考えた時、授業でどんなに大量の情報(教科の学習内容)を与えたとしても、生徒の係数a(興味・関心)がゼロだったら、出力としてのyは限りなくゼロに近いものになってしまうということになります。

これについては、思い当たる所がある。静修に来る前にぼくは千葉の公立高校に勤めていたが、100数校の県内の偏差値ランクで下から2番目という学校で、当時は全国的に校内暴力とかで学校も荒れまくっていたから、暴走族とかシンナーとか大変であった。そんなふうだから、授業もでたらめで、国語の試験をしても平均点が20点ぐらいで、これ以上やさしい問題は作れんぞという感じだった。いいやつもおもしろいやつもいっぱいいたが、退学数も非常に多かった。だが、彼らが愛読していたバイク雑誌については、専門用語だらけで、ぼくなど読んでもまったくちんぷんかんぷんだったが、それを読みこなしているのに驚いた。すなわち、バイクについては係数aが非常に高かったのである。農家の子弟が多かったが、たぶんその後、生活のために今度は農業関連の知識についての係数aを高めて、今では農家のいいおやじになっているであろうと想像する。逆に言えば、係数aさえ高ければ逞しく知識を吸収して生きていくことが出来るのではないかと想像するのである。

と考えてくると、教育力を高めるということは、情報量としてのxの教え方の技術以上に、生徒の興味・関心としての係数a(それは個々の生徒一人一人によって異なるであろうが)をどう高めていくかの工夫にかかっているようにも思えるのである。一時、分かる授業、面白い授業というようなテーマで学内の研究テーマが設定されていたことがあるが、その肝は授業で冗談を言って面白く授業展開するといったレベルの話ではなく、個々の生徒の係数aをどう喚起し、向上させるかにあったように今頃になって思うのである(それは、子育てについても同じことが言えると思うが)。言い換えれば、仮に試験とか、受験とかといった外在的な係数aで維持する制度的な縛りを解除した時に、それでも学びが成立する力量の蓄積が学校や教員個々にあるか否かということでもあるかもしれない。

その教育的な力量が試されることのない、無責任な立場になって思いつくたわごとではある。

 

#立春の卵

「立春の卵」という言葉をご存じでしょうか。今年の立春は2月4日のようですが、暦の上での立春の日には、通常は立たないニワトリの卵を立てることが出来るという古くからの俗信のような言い伝えがあります。立春の日に、本当に立つかどうか試してみてください。

この「立春の卵」の話は、年度のスタート期のホームルームや学年集会でしばしば話のネタとして使ったのでした。その内容を思い出しながら、書いてみます。

「コロンブスの卵」という話がありますが、あれはゆで卵の底にコチンとひびを入れて立てるというインチキですが、「立春の卵」にしろ「コロンブスの卵」にしろ、その話の前提には「卵は立たないものだ」という常識があります。でも、立春という特別な日でなくても、インチキしなくても、集中力と根気さえあればだれでも卵を立てることはできるのです。では、なぜ「卵は立たない」という常識が出来上がったのでしょうか。いくつか理由を考えることができます。

・卵を立てることが出来たとしても何の意味もない。だからだれも真面目にチャレンジしなかった。

・試してみた人もいるかもしれないが、内心、どうせ立つはずがないと思っているから、すぐにあきらめてやめてしまった。

いずれにしろ、強固な常識が壁になっているのです。これは、仮説実験授業という教育方法の提唱者である板倉聖宣という教育学者の『科学的とはどういうことか』(仮説社)というとても知的刺激に満ちた本で知りました。「立春の卵」については雪の結晶の研究から「雪は天からの手紙である」という有名な言葉を遺した中谷宇吉郎にも同名のエッセイがありますので(『中谷宇吉郎随筆集』(岩波文庫))、興味があれば読んでみてください。

ぼくは、それらを読んで、卵立てにチャレンジしたのでした。30分以上かかりましたが、実際に卵を立てることが出来ました。その時には、本当に感動しました。コツをつかむともう少し短時間で出来るようになります。理屈的には、卵の殻の表面にはたくさんのプチプチがあります。そのバランスの安定する3点のプチプチの配置をみつけると立ちます。新鮮な卵ほど、プチプチも磨滅していないので、立ちやすいようです。親指、人差し指、中指ないし薬指の3本の指でそっと持って、安定点を探るのです。粘れば、先のとんがった方を下にしても立たせることができるようです。

というような内容をコンパクトに要約して、本題に入るわけです。常識にとらわれてはいけないとか、意味ばかり求めてはいけない、即効的に結果の出る意味もあれば、今は無意味に見えても人生の終わりごろになって滲み出すような奥深い意味もあるわけだから、例えば今のこの教科の勉強には何の意味もないと小賢しい判断で努力を放棄してしまうのはとてつもない損失になるのかもしれない、とか、「どうせ卵は立たない」=「どうせ自分なんかに出来っこない」と自分で自分の能力、可能性を限定しては駄目です、そういう考え方の癖をつけてしまうと自分で作った自分の限界を超えることは絶対にできません。「もしかしたら卵は立つかもしれない=自分は出来るかもしれない」と自分自身を信じること、なかなか思うようにいかなくても愚直にチャレンジし続けること、それが大事です、というような話に持っていったわけです。

時間があれば、冷蔵庫から卵を引っ張り出して、無我の境地で、卵立てにチャレンジしてみてください。

#入学式・卒業式

これを読んでいる方が静修高校に入学されたのは、何年前になるのだろうか。入学式のことをご記憶だろうか。教員の目からは、女子高のときも共学後も、女子生徒の新入生の真新しいセーラー服の親子線の白さが、その緊張した初々しい表情と共に強い印象として残っている。各教室前の廊下で整列し、階段を降りて、体育館後ろ(購買側)から入場してくるのである。

そして、3年を経て、卒業式をむかえることになる。今度は、体育館のステージの左右から登場し、式が終わると、入学式の時に入場して来たときの体育館後ろの出入り口から、在校生と教員の拍手に送られて退場していくのである。その意味では、体育館後ろの出入り口は、高校生活の入り口であり出口なのであって、その入り口と出口の奥には高校3年間の時間が詰まっている、という意味で象徴的な通路であると見なすことができる。

静修高校の卒業式のスタイルは他校と比較してもユニークであると思う。中学校の卒業式を思い出して比較してみてほしい。一般的にはステージ上に演台があり、そこに日の丸を背にして、校長がおり、下から登ってくる生徒に校長が卒業証書を手渡す。高低差からいって、生徒に対して高みから、文字通り卒業証書を「授与」する構図である。

静修の卒業式のスタイルを誰が考え出したか、いつから始まったのか知らないが(戦後であることは間違いないだろう)、ぼくはとても気に入っている。

まず、卒業生がステージの高みから登場して、左右に花が飾られ、赤い毛氈の敷かれた階段を降りて来るというスタイルは、主役は卒業生であるということを際立たせる。そして、来賓も、校長・教頭・卒業担任・一般教員も、父母も、在校生も、卒業生も同一平面上に並ぶ形になる。そこには高低差をつけずに、対等に同格で卒業を祝すという思想がうかがえる。これは誇っていいことだと思う。

卒業式シーズンにはテレビのニュースなどで、南高などの弾けた卒業式の映像が流れたりする。それはそれでいいのだが、静修の厳粛に進行する式もいい。体育館後ろの出口から退場するやいなや、泣いたり、笑ったりの弾けた騒ぎの声が体育館の中まで響いて聞こえたりする。ぼくは、そのメリハリも大好きだ。

その後、各教室でお別れの最後のホームルームになる。ぼくはカメラを持って教室を回り、その様子をよく写真に撮って歩いたが、クラスによってその雰囲気は様々である。担任やそのクラスのメンバーの個性や関係が生み出す空気なのであろう。

それが終わると生徒は一人一人の個に戻って、ばらばらと帰っていくのである。そして、だれもいなくなった教室に戻った担任は、そこで万感の思いで、感慨にふけるのである。その思いの中には、これでやっとせいせいしたという思いも含まれるのかもしれないが・・・。

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