静修の友

#七人の侍・荒野の七人・そして静修版荒野の用心棒(4)

ところが、その小宮の背を追うようにして、職員室側入り口から異形の女子生徒軍団が現れた。ガングロで唇はナメクジ的にぬめぬめ光り、目の下は紫色かなんかにてかっている。いわゆるブタギャルとかヤマンバギャルと呼ばれるセクト集団である。耳や鼻や舌にはピアスが光る。口から昼飯に食った梅干しのタネを吐き散らし、食いかけのおにぎりを投げつけながら迫ってくる。後列にはルーズソックスの一団、その後ろにはスカートの下にジャージをはいた埴輪姿の奇態な連中が続く。長谷川、谷浦、花田、大沢、小宮は四方を包囲され四面楚歌である。

そこに現れたのが熱血の青年剣士真田であった。ソフトボールのバット片手に駆け込んできて体育館に設置されている木製のぶら下がり棒によじ登り、「無駄な抵抗はやめろ、落ち着け、冷静に各教室に戻れ」と叫び始めた。軍団の中にはその姿に熱い視線を送っていた一人の女子生徒がいたのであった(「七人の侍」の若侍と村の少女のロマンスを味付けにでっちあげて折り込もうと思ったが、際限なく字数が膨らみそうなのでやめた)が真田はその視線に気をとられたか、手を滑らせ、床に落下して頭をしこたま床に打ち付けて流血してしまった。体育館の高い梁のあたりで、なぜか巨大パンツをムササビのように背負って風をはらみ飛行していた天野は、手にシャンプーの容器を持ってシュッカ、シュッカとふりまきながら、「シャンプー、リンス、シャンプー、リンス」と呪文のようにつぶやき、飛び回っていた。この抗争に嫌気がさしたのか、天野はそのまま遠くスペインの空に飛び去ってしまった。川又は「君たち冷静になりなさい。話し合おうじゃないか」と優しく諭すが、「うるせー!」の声。「ナニー!(怒)」。それをなだめるように三宅が「ぼくらは何が言いたいかというと・・・」と意味不明の長口舌をふるいはじめ、それに向かって「引っ込めー!」の罵声。横で庄田は、つまらなさそうに「こっくり、こっくり」と居眠りを始めた。小沢は体育館横の椅子にふんぞり返って何やら大声で怒鳴り続けている。その横で大橋が「てめえら、ふざけた真似をしとると、ぶっ殺すぞー」と威嚇する。(・・・続く)

 

#七人の侍・荒野の七人・そして静修版荒野の用心棒(3)

そこに新たな軍団が図書館側の入り口から現れた。先頭には超ミニの、大根、かぶ、ゴボウ、ネギ、ニンジンさまざまの形状の太ももを晒した女生徒たちが整然と隊列を組みおもちゃの兵隊のようにザックザックと現れたのであった。その後からは張りぼてのミサイルを担いだミニスカ集団が続いている。

その二正面からの攻勢の前に立ち現れた男が花田であった。剣道着を着て、竹刀を腰に構えて右手で握り、今にも抜刀しそうな緊張を漂わせ、侍のような摺り足で、さささささと走り込んで来たのであった。ニヒルな面構えは「ルパン三世」の次元を思わせた。「お前ら、スカート丈は膝が隠れる程度という決まりじゃろうが、決まりは守らんかい」とすごむ。一瞬ひるんだ暴徒たちであったが、その中の一人がコップの水をやけっぱちで花田にぶちまけるや、再び空気は騒然。壇上からは「モ~」が響いていたが、もうその効果は薄れ始めていた。その時、ロッキーのテーマと共にバドミントンラケットを手に登場したのが谷浦であった。花田と谷浦は背中合わせに竹刀とラケットを構え、二方面の生徒たちを牽制したのであった。その時、突然、アーアーアーアーアーウーウーウーウーウーラララララーラララララーという「北の国から」のテーマ曲とともにさだまさし似の大沢が右手にシェイクハンド、左手にペンホルダーの二刀流卓球ラケットで登場し、加勢したのである。大沢は田中邦衛張りに唇を突き出して、「昼飯をまだ食い終わっとらん。もういい加減にしてくれんか」と面倒くさそうに愚痴をつぶやきながら卓球台でバリケードを築こうとする。それに続きポンチョを真似た汚い毛布を肩から下げて現れたのが小宮であった。口笛を吹き、ギターを抱えて場違いな「禁じられた遊び」をつま弾きながらの登場である。一瞬砂ぼこり交じりの風が吹き抜け、小宮のカーボーイハットを吹き飛ばした。その時、眩しがるような目つきでクリント・イーストウッドばりの渋い二枚目の顔が現れると、体育館にどよめきが広がった。が、「見てくれにだまされるんじゃないわよ!」とスケ番リーダーが叫ぶと、軍団はみんな、はっ、と我に返ったのである。(・・・続く)

 

#七人の侍・荒野の七人・そして静修版荒野の用心棒(2)

3階の生活部室(現在は生徒指導部室)に一報がもたらされたのは、昼休み、午後1時を回ったころである。美津屋の冷やしタヌキそばをすすっていた問谷(以下敬称略)が受話器をとった。「五階のトイレから煙が出ています。複数の生徒が煙草を吸っているようです。北校舎から見えます」との女性教員からの通報。「がってんだ」と古屋が部屋を飛び出し、歳に似合わぬ速さで階段を2段飛ばしで駆け降りる。3名のふてくされた様子の女子生徒が連行されてきた。応援に長谷川が駆け付けた。「またお前らか。一人づつ話を聞こう。まず、お前。向かいの部屋に来い」と長谷川。「あんまり、手を掛けさせんなよ」と言いつつ、「まあそこに座れ」と問谷。「面倒を起こしたら駄目だべ。昼飯はもう食ったのか」とやさしく古屋。

その時、再び電話の音が鳴り響く。「体育館が大変です。仲間を助けようと不穏な動き。ぞくぞくと生徒たちが集結してきます。木刀やチェーンを振り回しています。カミソリを手にしている生徒や、メリケンサックを装着した生徒もいます」と先の女性教員の緊迫した声。北校舎側体育館入り口からなだれ込んできたのは、くるぶしぐらいまであるスカートの、いわゆる80年代スケ番スタイルの女生徒たちであった。ウンコ座りで下から見上げてすごんでいるやつもいる。古屋はすぐさま生活部員の花田、谷浦、大沢、真田、平田に応援要請した。問谷はすぐさま向かいの取調室に飛び込んで、「長谷川さん、時間稼ぎしてください。その間に対策を取りますから」。「よっしゃ」と階段を駆け降りる長谷川。長谷川は体育館ステージに上がり「これから校歌練習を始める。準備はいいか」。「あほか、なんで今、校歌なんじゃい」という罵声をものともせず、「♪藻岩の高嶺、の最初が大事だ、大きく口を開いて、モ~。もう一回、モ~」つられてスケ番たちが「モ~」。チェーンがじゃらじゃら。

(・・・続く)

#七人の侍・荒野の七人・そして静修版荒野の用心棒(1)

西洋人と日本人の歩き方、走り方には大きな違いがあるそうである。遊牧的な生活を基本とした西洋の走法は馬などを追って走るために両手・両足を交互に大きく振って大股で駆けるのだが、農耕的な生活を基本としていた日本では、重いものを運んだり、泥濘の田んぼの中を前に進むために右手と同時に右足を前に出して進むような摺り足的な歩の運びになる。(そもそも、古い日本の日常において、速く走らねばならない生活的必然は希薄だったと思われる)。これをナンバ歩き(走り)と言うそうだ。能・狂言の足の運びはこれであろう。西洋式の歩き方・走り方が定着したのは近代以降、西洋の文化が流入してきて、まず軍隊が採用し、学校の体育教育がそれを強化していく役割を果たしたようだ。ちなみに、体育座りというのがあるが、これは日本で開発されたもので、生徒の身体を管理、拘束するのに有効性を発揮する管理的身体技法であるというのを何かで読んで、へーと思ったことがある。一方、北朝鮮の軍隊の行進をみていると、手を大きく振り、膝を真直ぐに伸ばして足を棒状にしたままロボットのようにザックザックと進む。これは人間の歩運びとして非常に不自然であるので、実用的ではない。たぶん人工的に編み出されたものであろう。これでは文字通り「足が棒になる」。

そこで、東西の歩き方、走り方の違いを確かめようと思って、黒澤明の「七人の侍」とそれをリメイクしたアメリカ映画「荒野の七人」を見比べようと、ビデオを借りてきて見直してみた。志村喬演じる勘兵衛の走りと、ユル・ブリンナーやチャールズ・ブロンソンの走りを比べてみていただきたい。

と、ここまでは長い前振りである。その映画を見ているうちに妄想が走り始めた。

(・・・続く)

#先生の名前

NHKでいろんな名前を巡って、その由来を解き明かすといった趣向の番組がある。時々見るのだが、へーっという驚きがある。

そこで、静修の先生の新旧の名前を思い浮かべてみた。このぼくの文章へのコメント中によく小澤先生のことが出てくる。小澤には「小」がつく。「小」がつくのは同じ体育科に小倉先生がいる。お二人ともいろんな意味で「小」というイメージとは程遠い。そうそう、数学科には小松先生、小田切先生、小宮先生がいた。長く養護教諭をつとめられた小野寺先生も記憶に残っている。その逆に「大」がつく先生に英語科の大橋先生、地歴科の大沢先生がいる。

「木」に関連する名前としては数学科の鈴木先生、杉本先生、桑原先生、なぜか謎に木が無いと書く地歴科の木無先生。ご先祖が木の生えない禿山のような土地に住んでおられたのであろうか。「松」のつくのが体育科の松川先生、理科の松平先生、数学科の小松先生、英語科の松井先生など。「松竹梅」というが「竹」や「梅」のつく先生名は記憶にない。植物名に拡大してみると家庭科の藤野先生、漆崎先生がいる。英語科の藤原先生、他に「藤」がつくのは佐藤、斎藤(斉藤)、後藤、加藤などの各先生。校長や理事長を歴任された青木先生もいる。体育科の花田先生、国語科の柏先生、数学科の杉本先生、桑原先生。もう少し規模を拡大すると国語科の森先生、地歴科の林先生がいる。二人あわせて静修の森林組合と呼ばれていた。

地理的な名前で言えば「川」は家庭科の川中先生、体育科の松川先生、音楽の長谷川先生、情報の川又先生などがいる。「山」では書道の丸山先生、数学科の横山先生、体育科の横山先生がいる。「田」も多い。理科の成田先生、英語科の池田先生、庄田先生、村田先生、数学科の柴田先生、太田先生、原田先生、体育科の花田先生、斉田先生、国語科の堀田先生、平田先生、音楽の西田先生(後の平田先生)、数学、理科、体育、書道それぞれに吉田先生など。「谷」では体育科の谷浦先生、英語の淡谷先生、理科の問谷先生がいる。

同時代に同性の先生がいる場合は、区別して下の名前で呼ばれることになる。佐藤では理科の佐藤先生は友昭先生、あるいはミトコンドリアで、地歴科の佐藤先生は堅一先生であった。国語科の佐藤先生は雅子先生、あるいは雅子様、マチャコ、後に斎藤先生になられたので、区別して、家庭科の斉藤先生は暢子先生。伊藤では、理科の伊藤先生は剛先生、英語の伊藤先生は由美子先生、美術の伊藤先生は光枝先生と呼ばれていた。渡辺(渡部)は政経の渡辺先生は重夫先生、英語科の渡部先生は由理子先生、体育の渡辺先生は卓先生と呼ばれ、吉田は数学科の吉田先生は照美先生、体育科の吉田先生は茂先生、理科の吉田先生はえりか先生、書道の吉田先生は玲子先生であった。ぼくは妹尾だが、地歴科に若い妹尾先生が入って来た時には、ぼくがシニアとかお父さん、彼はジュニアと年齢で区別されていた。

美術の伴先生、英語科の渡部先生の旧姓の秦先生、同じく英語科の三宅先生は古代豪族の血を引いているのであろうか、校長の宮路先生も由緒ありげな名前である。

僕の記憶の中の何十年かの間に在職された先生名なので、同窓生の方が在学中にはすでに、あるいはまだおられなかった先生名も多いと思う。どんな先生名の記憶で盛り上がるかで、在学の時期がある程度わかるかもしれない。