静修の友

#ブラックアウトの夜(補・静修版百物語 1 )

コメントを読みながら、あれこれ考えました。

例えば、「半魚人の干物」について、後の話の展開予測を読みながら、それもありだなーと何度か思いました。鴨々川というアイディアがありましたが、静修の生徒による鴨々川清掃ボランティアの活動とからめても話が作れそうだし、ラストをアリにしましたが、カニのほうがイメージしやすかったかもしれないとも思いました。アリが対価を求めなかったことに、愛の無償性を読み取ったコメントがありました。それを意識して書いたのではなく、もう食うところがないだろうと適当に処理したのでありましたが、なるほどそういう読みも成り立つなあと思ったのでした。ハッピーエンドを期待した予測のアイディアも発展させられそうだなあと思ったのでした。半魚人が元恋人と再会出来たらよかったのですが。なぜ、半魚人が静修のプールに棲みついたのかという因果はあえて不条理なのだとしましたが、何かの因果を考え出すこともできそうです。

半魚人の干物がもう目がないのに涙を流せないだろうというツッコミもありました。確かにそうではありますが、物理的に流す涙だけではなく、心理的に流す涙というものはあると思うのであります。本当に悲しい時に、物理的に流す涙よりももっと感情的な深部で涙が流れるということはあるように思います。そういう経験のある方もいらっしゃるかもしれません。科学的ではない、文学的な発想ではありますが。

半魚人ないし人魚が静修のプールに棲みついたという設定を一つの話の「タネ」としたとして、たとえばそこから想像力によって無限のバリエーションが「芽」として生み出されて話が成長していく可能性はいくらでもあると思います。

ぼく一人でも「百物語」百話ぐらいならでっち上げられそうにも思いますが、どうしたって、発想がパターン化して、陳腐なものになってしまうだろうと思います。「新・静修百物語」というようなことを想像すると、同窓生の方々がオリジナルストーリーを考えてお話を組み立てられ、それぞれのアイディア作品を持ち寄れば、バラエティーに富んだ百話くらいはあっという間に達成できそうに思います。同窓会のホームページにそういう作品募集のコーナーを設けて、その作品を掲載し、出来栄えを競うという遊びもできそうです。それは妖怪でも幽霊でも化け物でも(その区別がよくわかりませんが)、都市伝説でも、超常現象でも、未確認飛行物体でも、未確認生物(たとえば、ツチノコみたいなやつが学校の敷地内にいるとか)でも、ちょっと不思議な現象を話に組み込んであればOKというようなことで。

妖怪と言えば、水木しげるの漫画は子どもの頃からよく読んでいました。水木の出身地である鳥取県の境港市にある水木しげるロードに行ったことがありますが、そこの土産物屋で「妖怪汁」というラベルの缶ジュースを売っていました。どんなジュースなのか、気持ち悪くて買いませんでしたが、「半魚人の泪汁」とか「半魚人のするめ」を商品開発し、静修の購買で販売したら、売れないかもしれないが、話題にはなるだろうなあ、などと馬鹿なことを考えるのであります。「校長愛用 悪霊退散幣」とか「巫女舞セット(ノンアルコール口噛み酒付き)」とか、「静修オリジナルゆるキャラ へとへとさん」とか「鯉(恋)の怨み晴らし桝」だとか「ミニひな人形 三人官女ダンサー・五人囃子ロッカー」とか「静修セーラー服着せ替え人形 スケ番・ミニスカ・ヤマンバ・ルーズ・埴輪」など荒唐無稽の学校名物を妄想してみるのであります。ただ、その前提には「静修百物語」がメジャーになることが前提でありますので、当然ながら、残念ながら、全く実現性はありません。それより、こんなの売り出したら、いったいどんな学校なのよと気味悪がられるでしょう。

#講演会や文化行事など

静修に勤め始めたころに驚いたことがいくつかある。60周年記念誌の編集作業をしていた時の資料に、毎年行われていた文化講演会の講師の名前があった。渡辺淳一、佐藤愛子、岡本太郎などが講師に呼ばれていたと知り、びっくりしたのである。その60周年の時にはその講演会の担当を任され、『いないいないばー』とか『龍の子太郎』、モモちゃんシリーズなどで知られる児童文学者の松谷みよ子が講師として候補にあがり、直接、電話して交渉したことがある。最初その電話は助手のような女性が受け、すぐに本人が出てこられて緊張した記憶がある。幸いにこころよく講師を承諾いただき、ほっとしたのを覚えている。当時の松谷作品のテーマが戦争だったこともあり、その事前指導にエネルギーを使った。当日は千歳空港まで迎えに行き、講演後、夜に会食していろいろ話した記憶がある。氏からはサイン入りの著書をいただいた。氏は民話の収集にも熱心で、その『現代民話考』全8巻(?)は静修図書館にあると思うが、その中の1巻に「学校の怪談」があったように思う。

以後も毎年、文化講演会は継続され、70周年の時の講師は思い出せないが、80周年の時の講師は椎名誠であった。身体が大きくてがっちりした、さすがに探検好きの作家だと思ったことである。その『岳物語』という作品は子育ての最中であった当時のぼくの愛読書であった。

毎年の講演会は全校生徒を聴衆としていたが、やがて特定の1学年を対象にするように変わったように記憶する。聴衆の人数が多ければ多い程、集中させるのが難しいという事情も働いていたのかもしれない。私語や居眠りといった講師に対して失礼なふるまいを注意するのに規模が大きいと手が回らないのである。先日、新聞に大学の先生が道内の地方の高校で講演した時のことを書いたコラム記事が載っていた。生徒の聴く態度の無礼さに怒り、それを注意しようともしない先生たちに対しても憤っていた。その気持ちはわかるが、一般の講演会のように、その演題や講師への関心をもって集まった聴衆で構成されるのとは違い、みんなが興味を持っているわけではない多人数の生徒に半強制的に話を聞かせるのは容易なことではないのである。今も行われているのであろうか。

他に、図書館講演会というのが毎年図書館内で任意参加として行われていた。規模としてはちょうどいいくらいだが、放課後実施で任意なだけに、講演を聞く参加生徒を集めるのに苦労したのであった。作家の「探偵はバーにいる」で知られる東直己や直木賞作家の藤堂志津子にも講演してもらった。藤堂は直木賞受賞直前だったと記憶するが、受賞後だったらとても来てもらえなかったであろう。

これも毎年行われていた文化行事は音楽や映画や演劇の鑑賞を行なうもので、よく教育文化会館を会場にして実施されていた。本物の芸術に触れさせようという意図で始ったのであろうと推測する。

さて、もう一つ、静修に赴任した当時驚いたのが、「静修高校研究紀要」と「静修教科研究」という2誌が毎年発行されていたことであった。ぼくもよく書かせていただいたが、前者が個々の研究テーマに基づくレポート類、後者は教育実践の研究例や研究会の参加報告で構成されていた。こういう紀要冊子は大学では多く発行されているが、高校でそういう誌を出しているというのはほとんど聞いたことがなかったのでびっくりしたのである。今は、だいぶん厚さが薄っぺらくなってきたようだが、この2誌の編集企画と利用の仕方によっては教育力の底上げに大いに資すると思いもする。

いずれにしろ、1学年が12とか13クラスとかであったころは学校に様々な意味での勢いがあったことは確からしく思い起こされるのであるが、あるいはそこには回想的な美化の心理が働いているだけなのかもしれないとも思いながら書いてみた。

#チャッピーと怪談(4)

先の共同研究のなかで、澤井先生が当時の現役の生徒、卒業生、教職員、購買の方、毎晩校舎を巡回する管理人さんなどに取材して収集した静修の怪談話が紹介されている。その見出しの項目だけを拾ってみる。

「生徒玄関の鹿」、「エレベーター」、「地下プール」、「トイレ」、「テニス部の部室」、「体育館」、「オーラが見える先生」、「北校舎」、「玄関(ロッカー)」、「病院跡地説」、「怪談踊り場の鏡」、「放送局」、「5階の女の子」、「教室の窓から外を見る女の子」、「教科書」、「修学旅行」、「首無し4番」、「卓球部」、「夜中、校舎から顔を出す少女」、「昼休みのワンマンショー」、「本校舎理科室~音楽室廊下」、「西校舎」、「夜中の足音」、「写真の煙」、「窓の外の影」、「オルゴールの怪」、「何かに押された(本校舎の教室にて)」、「図書館の怪」、「購買の怪」などである。ああ、あのハナシかなと思い出される方もおられるかもしれない。それぞれに具体的な怪異話が紹介されているが、省略。

ただ、想像も含めて紡ぎ出された怪異譚には、まことしやかに語られた事実に反するウソも混じっている。その想像上のハナシと事実を混同するのは危険である。その点は澤井先生も危惧しておられる。「他の怪談同様、静修の怪談話には事実とは全く違う内容も多く含まれる」として、エレベーター事故で死んだり、プール授業で溺死した生徒もいないし、学校が病院跡地に建てられたというのも、きちんと調べれば明らかだが、全く事実に反している。二基あるエレベーターの片方が使われなかったのも、そこで事故があったからなどということではなく、二基を稼働させる必要性が低く、経費やメンテナンス的な意味でも無駄だから稼働させなかったのだということらしい。

だが、それでは面白くないので、いろいろな想像的な尾鰭がついてしまうのである。でも、そうした身もふたもない事実を越えて、怖い、あるいは可笑しいという話はある。そういう想像力豊かな生徒もいたのであろう。そうして生み出されたハナシの内、代々に渡って受け継がれてきたものは、学年を超えて支持され、新たな装いをまといつつ語り継がれてきたのだろうと思う。

同窓生が在籍しておられたころに語られていた怪談にはどのようなものがあるだろう。その記憶の中の怪談を組織的に収集していけば、「静修の怪談」というような冊子が出来そうである。そういう多様な怪談話がたくさん存在するのは、静修高校の100年近い長い歴史とたくさんの生徒が刻んだ精神活動の累積や記憶の厚みによってももたらされているのだと思う。

ぼくも、死んだら、いつか、怖がらせるため、あるいは面白可笑しいおふざけで、幽霊として校舎のどこかに登場してみたい。でも、その前提には、静修高校の校舎が存在していること、ぼくが幽霊として登場した時、それを怖がり、あるいはげらげら笑う(観客としての)生徒の存在が不可欠である。

今、全国的に小中高あわせて年間500校が統廃合などで姿を消しているという。北海道は年間50校が消えているそうだ。地方をドライブすると、もう廃校になった校舎をよくみかける。静修高校という実体が消えたら、死んだ後のぼくの霊は出番がないまま、南十六条あたりをあてもなく彷徨うしかなくなる。それはさびしく、むなしく、怖いことである。

#チャッピーと怪談(3)

チャッピーという命名については、岡部先生の説が有力である。

「今では彼は「チャッピー」と呼ばれている。では、どの時点で名前がついたのであろう?卒業生にいろいろ聞いてみたところ、どうやら男女共学になったころ、つまり10年ほど前に、「彼」は初めて名前を持ったようである。しかし初期のころには、「ドロシーと呼んでいた」「花子だった」などと諸説あり、統一性はない。まだ局地的な名づけであり、共同性はさほどでもなかったようである。それが、ここ数年、「チャッピー」に統一されるようになった。それはTBS系のバラエティー番組「金スマ」のキャラクターが鹿のイラストで、「チャッピー」と呼ばれているからなのだそうだ。(中略)かくして「生徒玄関の剥製の鹿は「チャッピー」になった」。

語りの筋立てやキャラクターの名前が定着すると、今度は、そのハナシの語りという細部が工夫されてくる。一晩中、問谷先生を乗せて走り回った鹿は、さすがに体力を消耗し汗もかく。その証拠に、朝、鹿に触ってみな、毛皮が汗でしっとり濡れているから。というような細部のリアリティで補強されはじめる。ぼくも触ってみたことがあるが、そんな風に言われてみると、なんだか湿っぽいような気もするのである。ただ、ほころびた毛皮の継ぎ目あたりから、中に詰めたわらなどが見えて、チャッピーが生きて来た長い時間を思ったりするのである。どれだけ多くの生徒にチャッピーは愛され、可愛がられてきたのであろうとも思うのである。

毎年、入学式の受付はチャッピーのいる廊下に長机を並べて行われる。新入生が静修に入ってまず印象付けられるのがチャッピーの姿である。そして新入生に対するオリエンテーションが行われる時期に、生徒玄関に横付けされた健診車で結核健診のレントゲン写真を撮ることになる。その時、新入生たちはクラスごとにチャッピーの前の廊下に整列して順番を待つことになる。その順番を待つ間の手持無沙汰に、チャッピーを眺めたり、つついてちょっかいを出したりする姿をよく見かけた。つまり、入学すると同時にチャッピーが高校生活のスタートと共に印象付けられるのである。

文化祭では、招待客に対面して、首輪をさせられたり、鼻輪をつけられたり、花飾りで飾られたりする。卒業の日にはチャッピーの首に抱きついたり、頭を撫でて別れを告げる姿もある。チャッピーは静修の生徒の3年間を見守る守護神のような象徴的存在でもあるのかもしれない。

以前、テレビのニュースにもなったが、静修近辺に(生きた)鹿が現れて、ちょっとした騒ぎになったことがあった、その鹿は追い立てられて豊平川沿いに石山方面に逃げて行ったようだが、その時、前夜、お忍びで、孤独なチャッピーのところに彼女が会いに来たという妄想が浮かんだ。二頭で仲良く夜の校舎から街の夜景を見ながら、甘くささやきかわす姿を想像してみたのである。チャッピーもなかなかやるじゃん。

#チャッピーと怪談(2)

岡部先生は放送局で「チャッピーは草原の夢を見る」というタイトルのテレビ番組を制作されたとのことである(その作品を見たことはないが、とても興味がある。見てみたい)。その際、「放送局員が生徒に取材してみると、「どうしてチャッピーは夜中にはしるのか?」と聞いたところ、多くの生徒から同じ答えが返ってきた。「チャッピーは死んでからも台座にしっかり固定されて身動きが取れなくてかわいそう。だから、誰も見ていないときだけでも自由になりたくて、こっそり夜中に走り回ってるんじゃないの?」

この生徒たちの答にぼくはなるほどとうなったのである。岡部先生は、そこから「固定されて身動きが取れないのは生徒たち自身である」と読み解く。学校という秩序の中で、試験や、校則や、人間関係に縛られて窮屈に「固定されて身動きがとれな」いという心理状態が、台座に固定された鹿の姿と共感的に二重写しになり、せめて無人の夜ぐらいは解放して、自由に走らせてやりたいというような心情的な共感が、この鹿伝説を生み、支えてきたのではないかというような趣旨の分析をしておられる。納得できる解釈である。

澤井先生はその鹿に問谷先生が乗って走り回るという筋立てに注目して次のように分析しておられる。

「バレー部顧問の先生は当時とても怖い存在だったらしい。大柄で、体育館で仁王立ちになりバレー部の指導をする。現在は包容力が全面に出ている先生も、25年前は生徒指導などで恐れられていた。(中略)怪談を語っていた当時の女子生徒たちの気持ちも容易に想像できる。「あの先生、スカート丈長くしていたら(当時はくるぶし丈流行中)すっごく怖い声で叱るんだよね。腹立つけど、大きいし勝てないし、仕方ないからスカート普通丈にしたさ。でも、悔しい~。鹿の剥製の上に乗っけてやる!」かくして化学の先生は鹿の上に乗り、しかも王子様の格好をしていたなどというバリエーションまで発生する。王子様の格好の話を作ったのはバレー部の生徒かもしれない。日ごろの練習の恨みを想像の中で間抜けな格好をさせることによって晴らす・・・」。

すでに流布していた鹿伝説の基本の枠組みを利用して、こうした新たなバージョンが生まれたのかもしれないなあと思う。でもこのハナシには顧問教師に対する生徒たちの愛が感じられる。

ところで、あの鹿は、いつから、なぜチャッピーと命名されたのだろう。(・・・続く)