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#ブラックアウトの夜(補・静修版百物語 3 )
2019年1月23日
#ブラックアウトの夜(補・静修版百物語 2 )
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2019年1月21日
#講演会や文化行事など

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最終回

これまで、100回分ぐらい書いたでしょうか。もうだいぶん前にネタ切れし、後は無理無理ひねり出すような感じで理屈っぽくなり面白くもなんともなくなってきました。そろそろ潮時だなと思い、これをもって最終回とさせていただきます。ご笑読いただきありがとうございました。また、いろんなコメントをいただいた同窓生の皆様に感謝申し上げます。

また、「静修荒野の用心棒」や「ブラックアウトの夜」に出演いただいた先生方には、勝手なキャラを付与させていただき、本来のイメージを相当棄損してしまいました、なにとぞ寛容な心でお許しください。

書いている間、脳は静修高校のあちこちの場所や人や時間の中をネタ探しに彷徨っていたので、これで二度目の退職をする気分です。

同窓生の皆様のご健康とますますのご活躍を祈念いたします。ありがとうございました。

#量質転化の法則

授業や集会で話した別なネタを思い出しました。哲学で弁証法というのがあります。その一つの考え方に「量質転化の法則」というのがあります。ぼくは、これを三浦つとむという人の『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)で読み、とても納得できる好きな考え方で自己流にくだいてよく生徒に話したのでした。あるクラスの生徒たちに卒業にあたって書いた文章がありますので、一部を転載してみます。

<何であれ一定の「量」が蓄積されれば、それは「質」的な飛躍をもたらすという考え方です。ぼくはこれを「ワープ」と呼んでいます。スポーツの練習で考えてみてださい。一つの技術の練習を繰り返していると次第に上達してきます。しかし、ある段階に達すると壁のようなものができて、やってもやってもその壁を越えて次のレベルにたどりつけない時期が必ずやってきます。ここで嫌気がさしてやめてしまうと、絶対にその壁の向こうの世界は見えません。しかし、不思議なことに、それでも愚直に練習と工夫を重ねているとあるとき突然、ひらめきというか、悟りというか、ぱっと世界が開けたように、出来なかったことがあたりまえに出来てしまうことがあります。これをぼくは「ワープ」と呼んでいますが、この体験の繰り返しが技術の上達だと思います。でも、これは特別なことではなく、成長してきた過程で君たちも何度もこの「ワープ」によって脱皮を続けてきたのだろうと思います。コツは、壁が見えたとき、自分の限界だと考えて降りてしまわないことです。「継続は力なり」という言葉は信じていい。>

これはスポーツに限りません、芸術の鑑賞眼や、様々な職業的なプロの知識や職人の技術などなど、ある一定の体験的な量が蓄積されれば、常人からすれば信じられない質が生まれるのだと思います。才能や能力という問題はあるかもしれませんが、それでも、それぞれのレベルにおいて、量は質に転化するのだということは信じてよいのだと思います。教育の一つの役割は、その「ワープ」の実感を個々の生徒に持たせることでもあると思います。ちょっとニュアンスは違いますが、「達成感」と置き直してもいいかもしれません。その体験は、その後の人生において効いてくるのだと信じるのです。

きれいごとかもしれませんが、ぼくは体験的に「量質転化の法則」は信じていいのだと思っています。

#y=ax

一時、ベストセラーになった養老孟司の『バカの壁』(新潮選書)の中に「脳の中の係数」という章があり、数学音痴のぼくにもシンプルで分かりやすい説明があった。「入力」(「情報が脳に入ってくること」)をxとし、「出力」(その情報に対しての反応)をyとするとき、「この入力をx、出力をyとします。すると、y=axという一次方程式のモデルが考えられます。何らかの入力情報xに、脳の中でaという係数をかけて出てきた結果、反応がyというモデルです」として、次のように言う。

<このaという係数は何かというと、これはいわば「現実の重み」とでも呼べばよいのでしょうか。人によって、またその入力によって非常に違っている。通常は、何か入力xがあれば、当然、人間は何らかの反応をする。つまり、yが存在するのだから、aもゼロではない、ということになります。

ところが、非常に特殊なケースとしてa=ゼロということがあります。この場合は、入力は何を入れても出力はない。出力がないということは、行動に影響しないということです>

として学生に「出産ビデオ」を見せた時に男子学生が何の感興ももたらさなかった、すなわち「係数aがゼロ(または限りなくゼロに近い値)」だったという体験例を引く。なるほどと思ったが、係数a(「現実の重み」)、ぼくはこれを興味・関心と置き直して読みましたが、それがゼロであれば、いくらxという情報をたくさん与えても、その情報に対する反応のyはゼロにしかならないということであろうと理解したのでした。

これを、現実の目の前の生徒に転用して考えた時、授業でどんなに大量の情報(教科の学習内容)を与えたとしても、生徒の係数a(興味・関心)がゼロだったら、出力としてのyは限りなくゼロに近いものになってしまうということになります。

これについては、思い当たる所がある。静修に来る前にぼくは千葉の公立高校に勤めていたが、100数校の県内の偏差値ランクで下から2番目という学校で、当時は全国的に校内暴力とかで学校も荒れまくっていたから、暴走族とかシンナーとか大変であった。そんなふうだから、授業もでたらめで、国語の試験をしても平均点が20点ぐらいで、これ以上やさしい問題は作れんぞという感じだった。いいやつもおもしろいやつもいっぱいいたが、退学数も非常に多かった。だが、彼らが愛読していたバイク雑誌については、専門用語だらけで、ぼくなど読んでもまったくちんぷんかんぷんだったが、それを読みこなしているのに驚いた。すなわち、バイクについては係数aが非常に高かったのである。農家の子弟が多かったが、たぶんその後、生活のために今度は農業関連の知識についての係数aを高めて、今では農家のいいおやじになっているであろうと想像する。逆に言えば、係数aさえ高ければ逞しく知識を吸収して生きていくことが出来るのではないかと想像するのである。

と考えてくると、教育力を高めるということは、情報量としてのxの教え方の技術以上に、生徒の興味・関心としての係数a(それは個々の生徒一人一人によって異なるであろうが)をどう高めていくかの工夫にかかっているようにも思えるのである。一時、分かる授業、面白い授業というようなテーマで学内の研究テーマが設定されていたことがあるが、その肝は授業で冗談を言って面白く授業展開するといったレベルの話ではなく、個々の生徒の係数aをどう喚起し、向上させるかにあったように今頃になって思うのである(それは、子育てについても同じことが言えると思うが)。言い換えれば、仮に試験とか、受験とかといった外在的な係数aで維持する制度的な縛りを解除した時に、それでも学びが成立する力量の蓄積が学校や教員個々にあるか否かということでもあるかもしれない。

その教育的な力量が試されることのない、無責任な立場になって思いつくたわごとではある。

 

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