静修の友

#試験監督(2)

暗記型の教科で、ほとんどを記号で答えさせるような作りの試験問題の場合、試験監督は緊張する。基本的に覚えていたらすぐに答えは出る。逆に覚えていなかったらあきらめるか、適当に穴埋めするしかない。考えるために時間を要する必要が少ないので、試験開始から10分とか15分とかで終わってしまう。そうすると、残った時間は試験時間終了まで何もしないでじっと待つしかない。その意味では、試験監督同様、生徒も大変である。ガマの油ではないが、試験監督と、どこか魂の抜けたような表情をうかべている生徒たちとは沈黙のにらめっこの時間に耐えなければならないことになる。

「小人閑居して不善をなす」という言葉があるが、この無為な時間が一番あぶない。暇なもんだから、前や横の生徒の答案を盗み見ようとする。あるいは自分の答案をそっとずらして友達に覗かせてやろうとする(友情に厚い?)やつが蠢き出す。前から見ているとその気配は意外とよくわかる。身体が妙に揺れる。監督の方をやたらちらちら見る。不自然に机の中に手を出し入れしたり、うつむいて机の手前のあたりに目を落とす。

監督の役割は、必ずしも不正を見付けることではない。不正を未然に防ぐことにある。カンニングペーパーのような動かぬ証拠があれば、話は早いが、不正が疑われた場合、その生徒から事情を聞くことになる。見た、見ない、人の答案を見て写した、写さないというやりとりは実に消耗する。先生は私を疑っているのか、生徒のいうことを信じられないのか、などということになると相互に不信感の泥沼にはまる。よしんば、生徒が認めたとしても、その後、教科の会議から始まって何段階もの会議が続くことになる、謹慎の処分が決定すると、生徒本人と保護者にも来てもらって、校長以下、担任を含めて5人が居並ぶ中、校長が訓辞し、謹慎期間の通告がなされる。その後も担任は家庭訪問して、家庭謹慎期間に十分反省しているか確認し、毎日書くように義務づけている反省日誌なるものを点検したりする。ことは生徒の教育的な指導に関わることなので、いいかげんなことはできない。

そういう膨大な仕事が生まれることにもなるので、不正行為は発見することよりも、させないことが一番重要なのである。だから、妙な動きをする生徒に対しては、本人にわかるようにじっと見つめたり、机の横に行ってしばし立ち止まったりして、さりげなく警告するのである。そんなことをしなくても済む場合がほとんどだが、あきらかに隙を狙っているなというようなときは、試験終了のチャイムが鳴って何事もなく終わると本当にほっとしたものである。

#試験監督(1)

高校には定期考査というものがある。3学期制の頃は年5回だったが、前期後期制になった今は4回だったろうか。その試験監督は、自分の教科の監督をするわけではない。機械的に割り振られる。自分の教科の場合は、何か試験問題に問題や質問が出た場合に対応できるように、その時間は監督からはずされるのがふつうである。

この試験監督というのは授業をやるよりはるかにしんどい。授業だったら、教材を使って教える訳だから、教師は能動的にかかわれるが、試験監督はひたすら見張り続けるだけという受動性を強いられる。だから、時間が経つのがやたら遅い。50分なら50分の間、ひたすらその50分が経過するのを待つ。もし、その間に本を読んだり、採点できればいいのだが、それは許されない。じっと不正行為がないように目を配るのである。

だれだったか忘れたが、先輩教師から、おれたちは、この試験監督という非生産的な時間でどれだけ人生の時間を空費させられているだろうか、教員人生を通してその時間を合計したら相当なものになるぞ、と話しかけられたのを聞いた覚えがある。またある先輩教師は、おれは机間巡視しながらひたすら数を数えることにしている。そうすると、時間が経つのが速くなる気がすると教えてくれた。一度試してみたことがある。試験問題を配り終えてから、いーち、にーい、さーんと心の中で数え始めた。試験時間が50分として、一つ数えるのに1秒かけるとすると、1分間に60回数えることになるから、50分×60で、3000まで数えればピンポン、カンポンと終了のチャイムが鳴る計算だ。だが、1000ぐらいまで数えてバカバカしくなってやめてしまった。かえって、その無意味さによって時間が経つのがいっそう遅く感じられ始めたのである。

これはいわば、禅の「無」の境地にはいるような悟りの修業のようなものかもしれない。どう頑張っても未熟者の自分に「無我」にいたる修養が出来る訳がない。頭の中を空っぽになどできない。なら、適当な邪念を核に思念を紡げばいいのかもしれないと思ってみたが、考えるべき適当なテーマが都合よく浮かんでくるわけでもない。それに、もし何らかのテーマにそって思考をめぐらしたとしても、その思考過程のいちいちを紙にメモしながら、次の思考段階に進むというような段階を追う作業が許される状況にはないので、ちょうど悩み事を夜中に蒲団の中で考え、堂々巡りしてのたうつような不健全なことになってしまう。

生徒は問題を解くという明確なモチベーションによって集中できるのだろうが、そういうモチベーションがないままただ時間を食いつぶすことを強いられる試験監督という仕事は、ある意味で一種の苦行である。

#修学旅行(6)

学年主任として引率した時、佐藤雅子先生のクラス(すでに男女共学になっていた)にやんちゃな男女の班があった。前日の夜に夜更かししたのであろう、男子生徒がいつまでも起きて出てこないのであった。全体の出発もその影響で多少遅れたのかもしれない。その日は東京ディズニーランドに行く最終日だった。園内に入ってから全員は自由行動になったが、ペナルティーでその班全員を立たせて、30分足止めしたことがある、一刻も早く乗り物に乗りたいのでみんなじりじりしていた。「あんたらが馬鹿だから、わたしたちまでとんだ迷惑だ」と女子生徒がその遅刻してきた男子生徒たちをなじり、さすがにやんちゃな男子生徒たちもしおれていた。その様子を横で見ていて、おもわず笑ってしまった。「足止め終わり」、と告げると全員、脱兎のごとく目的の乗り物に向かって駆け出したのであった。本当にパッパラパーな連中であったが、雅子先生のからっとした性格を反映したのか、悪気の無い面白い連中であった。そのダッシュしていく後ろ姿はコミカルな青春映画の1シーンのように思い出されるのである。

担任としては何度も行った修学旅行であったが、はじめて学年主任として引率することになった時は、その責任の重さを考えると、あれこれの段取りが始まる夏休み前から、ずっと緊張しっぱなしだった。道を走っている観光バスをみかけるだけで、連想で修学旅行の準備のことが思い浮かび、ズーンと気分が重くなったりしたのであった。

そんな折だったか、修学旅行の生徒指導係を何度もつとめた経験豊かな問谷先生と飲む機会があった。「今からそんなに心配してもしょうがないよ。行く前の段取りは細かく、想定できることはきちんと細心に詰めておく必要はあるが、行ってしまったら何とかなるものだ、何かあってもみんなで対処すればなんとでもなる。むしろ、教員がすべてきちんとやろうとしてピリピリしすぎると、それは生徒にも感染して、旅行の空気が重くなってしまう。締めるべきところを締めれば、後は多少のことは目をつむるぐらいの方がうまくいくもんだ。何か問題が起こってもそれは当たり前だというくらいに考えて、どんと構えていればいいんだよ」といった主旨のことを言われて、気持ちがすっと軽くなったのを覚えている。ありがたかった。

言葉と言えば、長谷川先生から言われた言葉を覚えている。「修学旅行の時だけ特別にきちんとしようったて、それは無理な虫のいい話だ。日常の生徒の指導がきちんとできていれば、問題なんか起きない。普段手を抜いておいて、修学旅行のときだけきちんとしようなどとは土台無理な話である。何か問題が起こるとすれば、それは日常の学校での教師の指導に原因があるのである」というような趣旨の言葉を聞いた記憶がある。正論であり、耳に痛い言葉であった。

まあ、そんなこんなで、修学旅行を引率するどの教員にも生徒の目からはみえない苦労や喜びがあったのである。だから、無事千歳に着いて解散式が終わった時の安堵と解放感はひとしおであった。やっとゆっくり眠れる。その思いは教員も生徒も同じだったかもしれない。

#修学旅行(5)

思い出すと、どうしてもしんどかった特別な記憶が先に思い浮かんでしまうが、総じては楽しい記憶の方が圧倒的に多い。脈絡なく記す。今でも覚えているのが、担任として行った時の奈良の自主見学である。明日香をめぐるコースを選んだ7人グループと一緒に行動したことがある。レンタサイクルを借りて、田舎ののどかな秋の風景の中、石舞台や飛鳥寺を巡るのである。その時、レンタサイクル代を節約するため、僕を含めて8人で4台の自転車を借りた。今では許されないだろうが、二人乗りで走り回ったのである。ぼくは一人の生徒を荷台に乗せてガシガシとペタルをこいだのであった。黄色く実をつけた柿の木の下などを連なって走りながら、高校生に戻ったような気分になったのであった。

一度だけ、副担任として引率したことがある。英語の大橋先生と庄田先生の副担であったと思う。担任や学年主任と違って、責任はとても軽いので、気楽であった。その3人でダジャレを飛ばしながらの珍道中であった。京都の保津川を船で下ったり、嵐山の土産物屋を覗いたりした。そこに「はりはり漬」というのを売っていた。「この漬け物は急いで食べなくてはいけないんですよ」「なんで?」「hurry!hurry!漬けってね」などとばかなダジャレを競い、飛ばし合ったのをなぜかはっきり記憶している。東京の自主研修の時間には3人でパチンコに行った。庄田先生が勝ったように思う。その後、お上りさんで、東京タワーの見学に行った。いい旅であった。

担任として引率した時、京都で朝一番に平安神宮に行く旅程の時だった。その平安神宮の池の飛び石を渡っている時に、クラスの一人の生徒が足を滑らせて池に落ちたことがあった。そんなに深くはないが、生徒はずぶ濡れになって上がって来た。後を他の先生に頼んで、旅館に連れ帰って着替えさせることになった。タクシーを拾おうとしたが、そのずぶ濡れ状態では乗せる訳にはいかないと何台も乗車拒否された。近くのお店に行ってビニールの大きなゴミ袋を買い、これを下に敷くからと頼み込んでやっと宿まで帰ることが出来た。ジャージに着替えさせて、再びタクシーで一行を追いかけて次の見学地で本隊と合流したのであった。思いもよらぬハプニングであった。(・・・続く)

#修学旅行(4)

いちばん気を使ったのは平和教育ということで始まった広島の旅程である。修学旅行の初日はまず広島に入り、宮島観光をし、その日は広島泊。翌日の午前中に被爆体験の講話を聴くのである。講師の方に失礼のないようにきちんと聞かせることに神経を使った。事前指導ではその点を何度もしつこく指導するのだが、実際には前日に夜更かししているので、居眠りし出す生徒があちこちで出始める。講師の前で大きな声で注意するわけにもいかない。さりげなく、その近くに行って背中をつついて起こして歩くのである。これはやはり恥ずかしかった。

その広島での体験談のひとつを「共同研究 学校の怪談」(『札幌静修高校 研究紀要』41号)という文章中に書いたことがある。紹介的に引用してみる。

<ここで、体験談を一つ。学年主任として修学旅行に行ったとき、帰札後、生徒が広島の原爆資料館で撮った一枚の写真を担任の服部先生から見せてもらったことがある。被爆直後の様子を再現した瓦礫の中にたちすくむ姿の蝋人形を撮ったものだった。その二体の人形を包むようにして、その背後に真赤な炎が燃え上がっていたのである。展示で見た時にはそんな炎の演出などなかったはずである。不思議な気分でその写真をあずからせてもらった。数年後、再び修学旅行で広島にいったとき、照明かなにかの光の具合でそんなふうに写ったのかもしれないと思い、同じ構図で何枚か写真を撮ったが、まったくそんな燃え上がる炎は写ってはいなかった。ぼくには、広島で被爆して亡くなられた犠牲者の苦しみと無念さそのものが念写された写真に思えてならなかった。その写真はそのときの修学旅行で被爆体験の講話をしていただいた方に、講話のお礼の手紙と共に、事情を説明してその写真を同封して送付したことだった。>

先日、原爆資料館の展示がリニューアルされるというテレビのニュースを見ていたら、その被爆直後を再現した瓦礫の中の蝋人形が映し出されていた。最近、こうの史代の漫画『この世界の片隅で』(双葉社)をアニメ化した同名映画を観に行ったのであったが、それを観ながら、今度は一人でゆっくり広島の街を歩き、原爆資料館にも行ってみようと思い立ったのである。

事前学習で、『人間を返せ』というビデオは全生徒が観たはずである。国語の授業では原民喜の「夏の花」という小説を教材として読んだのであったが、覚えておられるだろうか。