#部活(1)

このエントリーをはてなブックマークに追加

千葉の高校を辞め、静修に採用された時、その千葉の高校の体育の先生で女子バスケット部の顧問だった先生から、君が今度勤めるという札幌の静修高校は女子のバスケットでは全国大会の常連校で、とっても強い学校だよと教えられて、へーっと思ったのだった。

勤め始めたころ、その言葉を思い出して体育館でのバスケット部の練習を覗いて仰天した。顧問の先生のものすごい、厳しい、激しい指導ぶりを目の当たりにしてびっくりしたのであった。今なら問題にされるかもしれないところであろうか。だが、当時は全国大会出場レベルの練習はこんなにすごいのかとただただ驚嘆したのであった。

谷浦先生が顧問のバドミントン部も全国大会常連校で強かった。(その影響か先生方のバドミントン熱もとても高かった。教員のバドミントン大会で静修教員チームが優勝したことがあると聞いた。その夜の飲み会の弾け方は半端でなかったと伝説のように何度も聞いた。勤め始めのころ、その練習に誘われた。放課後の部活の練習が終わるのを待って、夜の体育館で練習するのである。一度、古屋先生とシングルの試合をした。前後左右に揺さ振り廻されて、ぼくは1点も取れずに負けた。バドミントンがこんなハードな競技であるとは想像もしていなかったのである。)

その当時の記憶をたどれば、高橋悟先生が顧問の陸上部、松川先生が顧問の卓球部、鍋谷先生が顧問のバレー部、横山先生が顧問のテニス部等が思い浮かぶ。他にスキー部、スケート部、水泳部、小倉先生が来てからであろうか新体操部、ソフトテニス部、ソフトボール部、剣道部、空手部、弓道部、少林寺拳法部、バトンクラブ等にぎやかだった。体育館の練習割り当てなどもいろいろ大変そうであった。放課後の体育館には大変な活気があった。時を経て、定年退職などで顧問は少しずつ入れ替わっていく。あるクラブの顧問がだれであったと記憶しているかで、同窓生の在籍していた時期もある程度分かると思う。

その後、消滅したと記憶しているのがソフトボール部、スキー部で、実質的に活動が休眠状態の部活もいくつかあるように思う。その後に新たに生まれたのが、野球部、男子バスケットボール部、ハンドボール部、サッカー部ということになろうか。ダンス部は運動系のクラブと文科系クラブのどちらに分類されているのであろう。それにつけても、自前のグランドがないというのは大変なハンディであることは間違いない。顧問や生徒には実に気の毒なことである。

(運動部であった同窓生には、当時の記憶をよみがえらせるきっかけになればと思って、クラブ名を羅列してみたが、正確な資料にあたりながら書いているわけではないので、記憶違いや、クラブ名の書き落しがあるかもしれない。そこはお許し願いたい。)

12 thoughts on “#部活(1)

  1. 「今なら問題にされるかもしれない」指導が当たり前だったのが体育会系部活でしたね。全道、全国で優勝するというのが目標の部は並大抵の練習量ではなかったと思います。このての思い出話は熱く語る同窓生が多いと思います(笑)

  2. おはようございます!小澤先生最後の年が平成3年卒の自分たちの代でした。今では捕まる指導・・・💦💦完全にそうでしょうね。特に自分たちの代では旭川から来たMと釧路のT。
    この二人はさらにシゴキ指導がひどかった。
    体力面、精神面の限界を超えよく3年間耐えたと思います!自分も主将ゆえ厳しい接し方していました。当時は練習後、誰も近寄ってはこないくらい怖い顔してたと思います💦💦
    今では「優しくてきもち悪い」とか言われます(笑)

    • シゴキ指導の凄まじさは試合中の相手チームも怖がるほどだったと聞いています!三年間よく頑張ったと思います。メンタルの強さはこの時鍛えられたのですね!

  3. 高校・大学・そして色んなスポーツの団体で、今まさに問題にされてる事例がいくつも出てますよね。
    言葉の厳しさ、練習の激しさに体力も気力も続かなかった人もいるとは思います。でも辞めたいと言ってるのに辞めさせてくれないようなことは耳にしたことは無かったですね。
    「今なら離婚するって言われるよー」と言っていた顧問の先生もいるように、先生も大変だったのだと思います。
    どんなに厳しくても私利私欲に走らない先生の姿があるから、みんな一緒に走れたのかなと勝手にですが感じています。
    でも私は図書局で、運動とは無縁でしたー

    • まずは信頼関係が重要ですね!この信頼にズレが生じて来ると問題になってきます。昔のような指導は通じなくなっているようですね。

  4. 私の部活生活といえば、部室に幽霊が出ると先輩に脅かされ…一週間で、退部してしまったので…。
    3年間、応援する側でした。弓道部の袴姿は、本当に時をかける少女そのものでした。しなやかに演技をする新体操部の様子を遠くから、静かに見学したものです。
    そんなことを思い出していたら‼️ 卒業間近、ロッカールームがあった地下に、パソコン教室が開かれたような?
    その御指導は、光枝先生? 一部目は、名前の入力や図形みたいなのを作成したような?
    二部目は、私は…観光バスの入社を決めていたので…パソコンは、使わないかな?と銀行や事務関係が、決まっていたクラスメイトに譲った記憶があります。

    • パソコン教室やりましたね。家庭にもあまりパソコンが浸透していなかった時期でしたがパソコン部を立ち上げました。草創期は試行錯誤でしたが、パソコンが当たり前の時代が絶対くると思っていました。

      • 記憶って…パッッ〜〜〜〜と‼️
        古い映写機のように蘇るのですね。
        購買で働いた頃、時々🍙いらっしゃる、伊藤光枝先生に、パソコンを教わりましたが…。
        何故か?初めて習う気がしなかったのは⁉️
        今になって、不思議が解けました。
        私のバスガイド時代に、パソコンが登場するのは…かなり、後。
        ですが‼️
        伊藤光枝先生は、未来から来たので…必ず、パソコン時代が当たり前になる事を知っていたんですよね‼️
        元空想少女(笑)

    • 見落としてしまいました・・・(^^;) でも、今日、NHKのど自慢で今年同期会に出席した私のクラスの同窓生の出演は見れました(笑)

  5. こんにちは、本日二度目のコメントです。こんな偶然もあるのだなと思いつつ、今、書き込みしています。

    妹尾先生のエッセイが部活、そしてバスケット部・鬼の顧問の小澤先生の登場、ちなみに私は二・三年と小澤先生が担任でしたよー、背筋がコオルような場面もありましたねー

    その小澤先生の陶芸の作陶展に行ってきたところです。小澤先生は第二の人生で陶芸を楽しまれています。残念ながら作陶展は今日が最終日ですが、小澤先生はとてもお元気でした。そして眼差しが優しいおじいちゃんになられてますよー、これマジですからー。

    • おっ、2度目の投稿有り難うございます!そうですか。陶芸はバスケ部顧問を降りた時から美術室にロクロを置いて作陶していました。眼差しの優しいおじいちゃん。理想的な老後生活ですね。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *